母の随筆1

 

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原 民子 平成30年2月14日没 享年98歳



 

【一人暮らしの対話】

私は現在七十八才のひとり暮らしの老婆である。五人の子どもを育て、夫を十年ばかり前に見送って、現在正に一人ぐらしをしている年老いたばあさんである。
五人の子どもは、それぞれ自分の世帯を持って独立している。せちがらい世の中である。いろいろと大変なこともあろうが、それぞれに何とかやってくれていることは、私の悦びである。
一緒に暮らしてはどうかと、子どもとの同居をすすめて下さる方もあるが、私はまだその決心がつかないでいる。私は頑固なのだろうか。勇気がないのだろうか。多分その両方なのだろう。
私の夫も、私と似たもの夫婦というか、私と同じ考え方の人のようだった。全くさびしいと思わないと云ったら嘘になるだろう。人間、誰と一緒にいても、さびしいと思えばさびしいし、さびしいと思わないでいられる知恵が自分に備わっていれば、さびしいと思わないですむのではないかと、私は思うのだが…
自分一人になって、満たされたものを感じることが出来たら、それが知恵の働きというものではなかろうか。それはいくら求めても得られるものではないもののような気がする。自分がその知恵を与えられるに値するようになった時に、大きな力によって与えていただけるようなものだろうと思うのだが。
つい先日娘から何か書いてみないかという誘いがあった。とんでもないことと思った。この頃は本もあまり読んでいないし、まして書くなどということは若い頃から私のやれることではないと思っていた。しかし、あまりにも熱心な娘のすすめにむげに断わるのもどうかと思うようになった。
先ずペンを持って何を書こうかと考えなければならない。この作業が案外自分の為になることが少し分かって来た。一人でいると話をすることは少ないし、つい考えることも少なくなっていたのかとこわいような気持ちになった。
書こうと思えば書く為に言葉を探さなければならない。これがいいものをもたらしてくれるような気持ちになって来た。
一人暮しで対話するには書くことがいいように思えるようになりつつある。

 

【あだばな】

それはある暖かい昼さがりの縁側だった。夫と私は何をしていただろうか。新聞でも広げていただろう。退屈さを持てあまして私は話し出した。
「もし私が死んでも、私は子どもを育てたということしか残らない。でもあなたは、多くの学生を教えて、作品を作って、テレビに出て新聞を書いて・・・」と続けた。夫は何と云うだろうと私は思った。私は夫の言葉を待った。夫のいわく、
「テレビに出たことも、新聞に書いたこともあだ花のようなものだ。作品も作っている過程では意味があるが。そう、あとには残らない」とサパッと言い切った。そんなことを云ってもいいのかしらと、私は意外に思った。あんなに神経をすりへらすようにしてやった仕事をあだ花のようなものだったと云う。
「おれのほんとうの仕事は今のこの生活だ」と云ってくれた。その当時、私は体調がすぐれず、何かと夫の世話になっていた情けない状態になっている女房の世話をしているその状態を。最も大事な仕事はこれだと言い切ってくれた夫、私はありがたくて涙がこぼれそうになった。その夫は今はもういない。

 

【たみちゃん】

ある時夫は小さな声で、私にたみちゃんと呼びかけてくれた。耳ざとく聞きつけた私は、直ぐに夫の方を見た。彼はニターと笑って私の方を見ていた。何てことは無い。私の呼び名である。
小さい時から何時もたみちゃん、たみちゃんと呼ばれて来た呼び名だけど、六十も過ぎると、とても新鮮に聞こえて、不思議な響きを感じた。周りには誰もいなかった。夫はいたずらっぽい顔をして、じっと私を見ていた。彼らしいと思ってうれしかった。
結婚した当時は、たみちゃんと云われていただろう。そのうちに周りのことも気になって、何と呼ばれていたか記憶にない。それから夫はよく子どもがいないところではたみちゃんと呼んでくれた。子どもが一人でもいると、必ずお母さんだった。夫とて明治の男だから子どもの前では面子があったのだろう。
ある時夫は私の実家で周りに沢山の人がいるところで、私のことをたみちゃんと云ってくれた。私の実家ではそんなソフトな夫など想像もしなかっただろう。うちへ帰って私がそのことを話すと、夫は意地悪そうに、一ぺんくらいたみちゃんと云ってやれと思って云ったんだと云った。私はうれしかった。何と気味のいいことを云う人だろうと私は夫を頼もしく思った。
何でも格式ばかり気にしている田舎では、夫は異例の人としてあまり歓迎されていなかったようだ。新しい人は田舎の人には往々にして嫌われるのだから仕方がないのかもしれない。

 

【なむあみだぶつ】

ある時夫は突然、
「おれはなむあみだぶつが云えないんだ」と言った。
何とすなおにいってくれたのだろう。言いたい気持ちがあったからこそ自然と出た言葉だろうと思った。私は小さい子どもが自然に、親に訴えるように云ってくれたような感じがして、とてもうれしかった。頑固が背広を着たような人だと思っていたのに、何時の間にか人間ってこんなに角がとれて来るものかととてもうれしく感じた。
又ある時こうも云った。
「年を取ることはいいことが一つある。年を取ると死ぬことをさほどいやな事だと思わなくなって来る。若い時は、死ぬということが、どんなにつらいことか、たまったものではないよ。それが年を取って来ると、さほどいやでなくなるのだからありがたいことだ」と極く自然に話してくれた。何とすばらしい心境だろうかとうれしく思ったことだった。こんな風に年を重ねてくれて立派だと思った。私も見習いたいと思った。
「おれはやりたいことは皆やった。だから思い残すことは無い」と云って亡くなった。私もあやかりたいと思う。

 

【すまなかったねえ】

それは夫の亡くなる一週間くらい前のことだったでしょうか。周りには誰もいませんでした。私が一人で見守っている時でした。夫は何かものが言いたそうな様子を見せました。私が側に寄ると、
「すまなかったねえ」
とただそれだけ云ってくれました。何とやさしい言葉でしょう。私はその言葉を、どれだけ大事にうれしく思ったことでしょう。それから幾日も経たないうちに帰らぬ人となってしまいました。
夫が亡くなった後で息子に、おやじは何か云って行ったかと聞かれましたが、私はこのことを云うことが出来ませんでした。誰もいない時に、私にだけ「すまなかったねえ」と云ってくれ夫、どんなことを考えて云ってくれたのか、私は考えることもできませんでした。
この紙面をかりて、子ども達に伝えたいと思って書くことを決心しました。だまっていてごめんなさい。でもあの時はとても云えませんでした。

 

【夫のブロンズ像】

うちには大木祥作氏の夫のブロンズ像があります。夫が亡くなる前から制作にかかって下さって、出来上がった時にはもう亡くなっていましたが、本人も承知の作品で立派な胸像です。
私が一人暮らしを始めても、とても元気に生活させてもらえたのは、正にこのブロンズ像のお陰ではなかったでしょうか。どんなに私に元気を出させてくれたか、言葉では到底言い尽くせません。夫婦とは不思議なものです。私の寝室においているのですが、負け惜しみではなく、淋しいと思ったことはありません。彼もきっと淋しいとは思っていないだろうと思えるところが面白いです。
引っ越す前に置く場所は何処にするかと大分考えたのですが、結局私の考えで、私の寝室におくことにしました。正に正解でした。
こちらの方にお寄りの節は是非ご覧になって下さい。大木さんに改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 

【民ちゃんチョットおいで】

私は母に
「たみちゃんチョットおいで」
と云われるのが一番こわかった。一番いやだった。やさしく云っているつもりだろけど、その時は必ず私にとっては、とんでもないことが話されることになっていた。
その場所は何時も二階だった。誰一人として寄せつけられないところだった。その時もそうだった。母はいそいそと先に二階に上がっていた。何を話されるか、私には想像はついていた。原稲生と婚約を私に納得させる為だった。
広い家でもないうちの中、誰が何を話しているかみんな分かってしまうではないか。前日からの父と母と稲生の話しは一部始終聞こうとは思わなくても私の耳には入っていた。父は何も云わなかった。稲生は最初は
「私が話してみようか」
と云っていた。私はその言葉に真実味を感じてうれしかった。自分で責任をとるという気持ちは好感が持てた。すると母は
「私が話す」
と云った。何と傲慢な態度だろうと私は悲しくなった。でもこれが母の総てなのだから仕方が無いのかもしれない。母のいわくには
「民子の気持ちはみんな分かっちょる。民子の日記を読んでいるから、あの子が何を考えているか一番よう分かっちょる」
というではないか。私は最低だと思った。狭いとっころで話しているのだから幸か不幸か何もかも聞こえてしまう。 
私の学校では日記を書かせて、それを一週間に一回提出することになっていた。その日記を母はうちの家事をする暇は無くても、私の日記を克明に読む時間はあったのだろうか。それを何の恥じらいもなく堂々と云ってしまう母を私は腹を立てるより悲しくさえ思った。私も母も不幸だったのだと思わなければ救われない。民子のことは私が全部分かっちょると大見栄を切る母には父も夫も何も云えなかっただろう。
それからしばらくして母が一人二階に上がって来た。泣きじゃくっている私に何やらもっともらしい事を一通り並べて母は話していた。
私はあんなに泣いたことはない程泣いた。自分という人間のことをこんなに度外視して事を運んでいくことがただただ悲しかった。
そうしてスタートした夫婦ではあったが、神様にはしっかり眼にとめられてこんな夫婦になれました。神様は必ず居られます。ずるい事をすればそれなりにおしかりをしっかり受けなければならないし、耐えるべく耐えて行った人は神様はどんな小さい事でも決してお見逃しにならないというのが私の乏しい人生からしっかり感じとった大きな力です。皆さん決して諦めずに一生懸命に生きようではありませんか。私も生きます。

 

【むげない】

それは宮参りの日だった。私はいやでも花嫁衣装をつけてお宮参りをしなければならなかった。この日ばかりは一切の感情を抜きにして私は云われるままに従った。前にも後ろにも近所の子どもたちがゾロゾロ着いて花嫁は近所の氏神様にお参りしなければならないことになっていた。
お宮参りを終えてうちに辿り着いた時だった。うちの中は手伝い人たちでゴッタ返していた。丁度その時タイミングよくうちの遠縁のキップのいいおばあさんがうちの中に入って行った。入るといきなり大きな声で、
「あんたは何でたみちゃんにこんなむげないことをさせるんねえ。たみちゃんのような娘は何処からでももらい手は何ぼでもおる。何処の馬の骨ともわからん人に何で急いでやらにゃならんとねえ」
と大きな声でどなり込んだ。うちの中も人で溢れんばかりのところで云ったのだから迫力があった。私はそのおばあさんが好きだった。男のようにキップがよくて、男まさりの大きなダミ声で云うところなど大したものだった。私の結婚はやっぱりむげない結婚なのだと思った。
母は体裁が悪かっただろう。親戚の人や近所の人が一番多く集まっているところで云われたのだから・・・
近所の人は最高に面白かったことだろう。母はその後随分ひどい事を云うものだとこのおばあさんのことを散々悪く云っていたが、私は却ってよかったと思った。ものごとは大体こういう風になって行くのかと、私は大人の世界をかいま見たような気がしてほっとした。
それから「むげない」という言葉を字引きで引いて見ることは忘れなかった。私の田舎では、ほんとうに可哀相だという時にはむげないという言葉を使う。タイミングよくうちにどなり込んでくれたおばあさんに、その後は会ったことは無かったが、私はそのおばあさんをとても好きだった。
そんなことがあって結婚をスタートさせた私のこと、いろいろと人とは変わったことがあっても当然だと思って生きてきた。
こうして書けるようになったことでもえらいもんだと思っている。結婚式の日は私は人生最高の屈辱の日だと思った。

 

【一枚の写真】

私には傑作の写真が一枚ある。結婚式の写真だ。女であれば誰しも最高に美しく撮ってもらいたいと思うであろう写真が、私のはチト違う。こんなこわい顔をしてにらみつけているような写真が、外にあるだろうか。事実をそのまま写出すから写真というのだと感心している場合ではない。
出来上がった写真を見て母は何と思っただろう。高い着物を着せれば、娘は美しく写れるとでも思っていたのだろうか。着物では無いですよ。要は中身ですよ。
でも私はこの写真に満足である。うれしくもないのにうれしいような顔をしなければならない方が、もっと辛かっただろう。私は自分の心のままが出ていてほっとしている。私は人の前で上手が作れないのだ。写真はほんとうに心を表わしてくれるものだと、感心したのだった。自分をアピールしたのだから、自分は立派だったと思う。
誰一人相談にのってくれる人もなく、ただ自分の中でもんもんとしていた自分を分かってくれていたのは、誰でもない唯自分一人だったのだから、こんな顔になって当然だったと思う。
私にとっては記念すべき一枚の写真である。でもその写真はあまり長く見ていたいと思わない。自分が可哀相に思えてくる。夫と一緒にその写真をじっと見つめた記憶はない。

 

【カサカサの手】

「お前の手は軟らかくなったねえ」 
ある時夫は突然そう云った。
「おれはガッカリしたよ。結婚した頃お前の手はカサカサだったよ」
「そうだったでしょうねえ」
とは私は云えなかった。事情を知らない夫に云いたくはなかった。
母は私のことは早く嫁には出したい、うちの手伝いはさせたいというわけで、式の前日まで流しで働かせた。薪は割るし、かまどでご飯炊きはするし、私の手はひび、あかぎれでひどかった。
お嫁さんを作ってくれた髪結さんに 
「民ちゃんの手はどうやろか。お嫁さんを作らにゃならん人が、こんな手をしちょって・・・」
と云われたのを覚えている。母は気まり悪そうに 
「民子はゆっくりさせてやりたいけど、つい忙しいもんやき、仕事をさせてしまうんで・・・」
と苦しい云いわけをしていた。
夫には多分事情は分かっていなかっただろう。
私は自分の過去を少し虫干ししようかと思うようになって来た。
父も母ももういないし、過去を虫干しすると、私も少し変われるかもしれないと思えるようになった。さて、いかに虫干しするかがむつかしい。

 

【太平洋をボートで一人旅】

いろいろな過程を通って、私たちは母の意志通りに結婚することになった。はっきりそうと定まった時に、幼い私の考えた事は、太平洋をボートで一人旅をするようなものだという思いだった。その気持ちになれば、やれないことは無いだろうという思いだった。死ぬ覚悟になれば何でもやっていけるだろうと思った。
正にそうだろう。でも結婚というものはそんな気持ちにまでなってするものではないだろうと思ったが、幼い私の頭ではそう考えて越えて行くのが精一杯だった。
結婚後十年以上も経った頃だっただろうか、私は和子にその頃のことを少し話した事があったが、その後は話した事さえすっかり忘れていた。
この鴨志田で一人暮らしをすることを決心した時、和子がふと云ったことが忘れられない。
「お母さんは、また太平洋をボートで一人旅をするようなものね」と云ってくれた。あんな昔に云ったことを、よく覚えていてくれたことと、とてもうれしく思ったことだった。

 

【天の下】

 私は鴨志田の地に移り住んでもう十年になろうとしている。正にもう鴨志田の住人になりすましている。此処へ来た当時は右も左も知った人は一人もいないし、娘が近いところにいると云っても、バスで十分以上もかかるようなところで、昼間は仕事を持っているし、正に私の生活は勇気のいる生活だった。
周りは自然に恵まれているので、歩くには最高のところだった。近いところを毎日歩くのを日課にしていた。
ある日、私は何時も歩いているところを一人で歩いていた。それはとてもよく晴れた日だったので、真青い空の下を一人で歩いていた。両側は森になっていた。うっそうとした森でがまの穂を見かけたこともある。何とすばらしい自然であったことか。
何かと思ったら大きな蛇だったこともある。私はふと上を見た。
あれ!!天の下だ!!ここは天の下だ!!
空の下というより正に天の下というのがピッタリだった。
生きるも死ぬるも天の下なのだ。あの人だってお墓の中には入っているではないか。お浄土なんてあるのか無いのか分からないようなところに行ったというから淋しいのであって、生きるも死ぬるも天の下ではないかと思った途端に私は一寸も淋しいとは思わなくなっていた。亭主はここにはいないけれど、同じ天の下で、ここに一緒に歩いているのだ!!と思ったら、とても元気が出て来て夫と二人で手をつないで歩いているような気持ちになれた。それから来る日も来る日も一寸も淋しいと思わないで一人で歩くことを楽しめるようになった。
このようなことをお寺で話したらどう言われるでしょうか。私はまだ誰にも話したことはありませんが。空の下というのでは私の気持ちにピッタリではないのです。天の下でないとどうもピッタリして来ません。それからは、外を歩く時には何時も亡くなった亭主と一緒に歩いているような気持ちになりました。皆様はどのようにお考えでしょうか。お聞かせいただければありがたいです。

 

【早く年を取りたい】

私は結婚して六十代くらいまでは早く年を取りたかった。二十八才と十七才の男と女の結婚では誰が考えても無理があると思うでしょう。正にそうでした。私は早く年を取りたかった。年を取って、対等に相手にものが云いたかった。どう考えても向こうの言い分は無理だと思っていても、幼いという事は情けないことで、何時も私は我慢せざるを得なかった。
今彼が生きていたら、どんなやりとりをしているでしょう。残念です。こっちが一つ年をとれば相手も一つ年をとることになるのですが、私は年をとるのがとてもうれしかった。だから若さを喜ぶなどという経験は私には無い。少しでも年が近づいて向こうをやっつけたいと思うことばかりだった。こわい嫁さんでした。
でも年が多くなるにつれて、二人の差は相対的に縮んで来ました。私はうれしかったです。頭に白髪が出て来た時など「ヤッター」と最高の気分でした。でも人間とは全く勝手なもので、この頃はもう少し若くありたいと思うのですから始末に終えません。

 

【山内先生のこと】

 山内先生は、うちの子どもたちが幼稚園から小学校の頃、三軒茶屋の光昭幼稚園でピアノを教えて下さった先生です。もう二十年くらい前に亡くなられた方ですが、うちの子ども達のみならず、私の方が却ってお教えを受けたような方です。
ピアノは当然ですが、リトミックの指導もしておられた方なので、リズム感がとても素晴しくて、明るくていい先生でした。子どもがピアノを弾いていると、何時も後ろの方で一人でダンスをしておられました。
私がこうして、今日まで大きなつまづきもなくやって来れたのは、先生が陰でどれほど助けて下さっていたか分かりません。
お小さい時、お父様が牧師さんでイギリスの生活がおありだそうで、イギリスでは、どんな小さな家からでもオルガンの音が聞こえて来ていたと話されたことを思い出します。
先生からお手紙を沢山いただきましたが、私が一番感銘を受けたのは、よろこびも悲しみも沢山経験した原さんを、とてもしあわせな人だとうらやましいとさえ思っていましたというお手紙でした。
「もの好きねえ、子どもを五人も持ってアクセクしているなんて」
とでも云われても仕方のないような私の生活を、そのように見て下さっている方もおられるのかと、私はうれしく思ったことでした。
何とか皆育ってくれましたが、全く一時は身体が幾つあっても足りないようでした。どんなにつらい事があっても先生から
「原さん大丈夫よ」
と云っていただくと、ほんとうに何とかやっていけそうだという気持ちになれたのが不思議でした。それほど私は、先生のお声は神の声のように思っていたのだと思います。実際、何時も何とか越えて来れましたから・・・
不思議な力を私に与えて下さった方でした。今度お会いしたら、先生のお言葉通り励みましたら、私のようなものでも何とか生きてくることが出来ました、としっかりお礼を申し上げたいと思っています。

 

【絵】

 私は絵を書くことが下手だ。まさに下手だ。どうしてこうもも下手に産まれ着いて来たものかと、自分の出生をうらんだことさえある。でも誰のせいでもない。産まれつき美人に産まれる人もあれば、そうでない人もあるようなものだろう。理屈はどうであれ、私は絵が下手だ。
夫は芸術を職業としていたのだから、さぞや私のことを情けなく思っていただろう。夫はそういうものは超越していたのかもしれない。えらい人だったと今では思う。でもそんなことを一言もグチッたことは無かった。馬鹿にしたことも無かった。あの人のいたわりだったのだと今では感謝している。
字はまた別で何とか人並みには書けた。字を書く機会の方が多いから、その分では助かったのかもしれない。
以前に英語をやっていたことがあった。先生が英語で云ったことを絵にするのだが、友だちのはチャント絵になっているのに私のは何の絵だか分からない。犬なのか猫なのか、男の子なのか、女の子なのか分からないおかしな絵に、先生は何時も楽しそうに笑っておられた。笑われるとクラスは明るくなるけど、私は何となく情けなくなるが、いやな顔も出来ずに何時もテレ笑いをしていた。
英語の話を絵にするのが、私は一番にがてだった。先生は最高にほがらかな方だったのに、先生に答えられなくて、私は何時も自分がみじめだった。
絵がうまいとまでいかなくても、人の半分くらい面白く書けたら、どんなに人生は面白くなれただろうか。
私は性格的に、答が一つになるものに引かれるような融通のきかない性格であると思うので、そのせいで絵が書けないのかと思っている。
どうしても自分で面白く作ることの出来ない自分の性格、融通のきかない自分をなげいている。もう八十にもなろうとしている老婆は無理な話だと思うが、どなたか名案があったら教えて下さい。お願いします。

 

【ふぐ料理】

 私の田舎は冬の来客と云えば、必ずふぐ料理でもてなすのが習慣だった。結婚後数年たったある年、私たち夫婦は帰省することになった。
その晩は例によって豪華なふぐ料理だった。大きな鉢に美しく盛られたふぐの刺身は、正に芸術品のようだった。父は、
「さあ食べろ」
「さあ食べてくれ」
と、サービスにこれ努めていた。酒もまわって宴も酣になった頃、私はあまりのおいしさに、
「ふぐってこんなにおいしいものなの!!」
と実感をそのままに吐露した。こんなおいしいものは食べたことは無いというのが本音だった。
「お前は食べたことは無かったか?」
直ぐに父の声が返って来た。
「無かったよ」
「そうやったかねえ?」
けげんそうに父はそう言った。
「私たち子どもはふぐ料理の時は、あっちの方で他のものを食べていたもん」
そうだった。私は結婚するまでは、来客の時は弟や妹たちと一緒に他のテーブルで子ども向けのものを食べさせられていたのだ。
「そうだったか。すまなかった」
とは父は言わなかったが、言外の父の言葉は私にはよく分かった。父のぬくもりを感じて胸が熱くなった。母も夫も何も云わなかった。皆黙って箸を進めていた。それから私は一人何も云えずに、その晩のふぐ料理は黙っていただいた。少しほろにがい味のしたのは何のせいだっただろう。夫には多分、分かっただろう。

 

【玉子焼き】

 戦時中から戦後にかけては玉子は貴重な食料資源だった。私が女学校の頃、私は何時も隣の綾子ちゃんを誘って学校に行くのが習慣だった。私の方が少し早くうちを出て、綾子ちゃんのうちに行くと、何時も綾子ちゃんのお母さんが玉子焼きを焼き上げて切るところだった。フワフワの玉子焼きを切るのを見ながら、私は何時も母親のぬくもりのようなものを感じてうらやましいなあと思っていた。私は何時も佃煮と漬けものなどを自分で詰めていたのだから…
玉子焼きを弁当に入れてやりたい一心で、戦後東京に移り住んでからは、うちでにわとりを飼った。はじめて鶏が玉子を産んだ時のよろこびは忘れもしない。まだ暖かい玉子を持って来て、直ぐに玉子焼きを作ったものだった。
子どもの弁当に玉子焼きを入れてやれるのが、あれ程の喜びだったのに、世の中は変わったものだ。今は玉子焼きをさほどよろこぶ子どもはいないのではないだろうか。貧しい時には、それなりの喜びがあるものだとつくづく考えさせられる。これからの世の中はどうなっていくのだろう。

 

【えらいもんだよ】

 ガヤガヤ、ワヤワヤ久しぶりの再開を喜んで同総会は盛り上がっていた。その中で一際声の大きな音楽の青山先生が、 
「久原さん、あんたは大きいなったねえ。結婚して大きいなったねえ」と云われた。
何とうれしいことを云って下さるのだろう。一番うれしいことを云われて私は最高だった。親にもこんなことは云われたことは無いのに‥‥ 
でも先生の風ぼうはどこか父に似ていると前から思っていた。
私はうちへ帰って夫に、青山先生から結婚して大きくなったねえと云われたと話した。夫のいわく 
「おう、俺が大きくしてやったんだ。子どもを産みながら大きくなって、えらいもんだよ」 
「何がえらいもんですか」
これが私の人生だった。
先生と夫とは一緒に呑む機会を持ったこともあって、お互いに親しくなれたようだった。
何時頃からか年賀状を出すようになって、夫は毎年先生宛に夫の名前で年賀状を出していた。それに対して先生からは必ず私宛の年賀状が来ていた。でも翌年には、夫はまた先生宛に出していた。そんなことが十年近くも続いただろうか。私は夫にはなにも云わなかった。いや云えなかった。どちらもそれぞれに何か思いがあったのだろう。
今は二人とも故人になって何を聞くよしもないが書いていて鼻の奥がツーンとして来た。書く作業は不思議な作業だ。

 

 

【じゅくし柿】

秋も深くなると柿はまっ赤に熟してジャムのようにおいしくなるのだ。鳥などにたべられないうちに農家では大事に取っておいてじゅくし柿として高い値をつけて売るのであった。母はよくそのじゅくし柿を買っておいて、子どもではなく特別のお客さんに出すのだった。
稲生がうちにいた頃、母はよくその柿を買っておいて、子ども達のいない時に稲生にサービスしていた。私はその光景を見るのが何時もつらかった。子どもに親は食べさせたいと思うのに、何で大人の稲生に食べさせるのだろう。事情を知っている私には内緒にしておくわけにはいかず、二度に一度くらいは私も食べさせてもらったが、一寸も食べたいとは思わなかった。食べたい盛りの子どもが何人もいるのに、何で他人に食べさせるのだろうかと何時もいやな感じがした。母はそうまでして稲生の心をひきつけておきたかったのだ。
何時だったか、稲生が「あのじゅくし柿はおいしかったねえ」と云ったことがあった。私は悲しかった。何も知らない稲生は子ども達も皆食べていたのだろうと思っていたのだ。当然だ。母はそうまでして稲生の気持ちを引きつけて、私と一緒にしようとしたのだった。私が知らなければそれですまされるのだけど、一部始終を知っている私はどう考えればいいのだろう。ただこわいと思う気持ちだった。その母も今はいない。

 

【父のヴァイオリン】

 私の一、二才の頃のことだっただろうか。私は小さい時のことはよく覚えている。うちにはヴァイオリンがあった。父がそのヴァイオリンを弾いてくれた。
オーレはかわらのカレススキ…おまえもかわらのカレススキ…
歌詞はよく覚えていないが、ヴァイオリンの曲としては最もポピュラーな曲ではなかっただろうか。私は父のヴァイオリンをはじめて聞いて、天にも昇りたいようなうれしい気分になった。私にねだられて父はまた二、三曲弾いてくれたような気がするが、何の曲だったか覚えていない。
私は自分の父のことを人に自慢したいほどのよろこびを感じた。私がその後音楽を好きになったのは、その父のオーレはかわらののカレススキの曲が原点になっていると思う。どんなに自分の父のことを誇りに思ったことだろう。
父には夢があったのだ。夢とロマンを持っている人は話せる人だと私は何時も思っている。夢やロマンを持っている人は年齢を超越して話しが出来るし、ユーモアは解せるし、私の最も好きなタイプの人物だ。
父のこととは別の話しになるが、私の話しは何時もこういう風になるからと嫌われそうだけど、一寸聞いてもらいたい。
私が女学校の一年の時のことだ。女学校では天長節ならぬ皇后陛下地久節と云って、その日は一年に一回音楽会を開く日になっていた。私は歌はきらいではないし、一応クラスから一人だけ選ばれて、その中の一人が独唱することになっていた。うちのクラスからは私が選ばれた。放課後各クラスの代表がテストをして、学年代表を定めることになっていた。
その時間が来た時、私の脳裏に去来したものは、またこんなことで遅く帰ったら母にいやな顔をされるということだった。私はテストの時は声をセーブして歌った。先生は変だと思われたと思う。でも私はそうせざるを得なかった。でも「流浪の民」の時はソロで歌わしてもらったのでうれしかった。青山先生には総て分かっていただけたような気がして最高にうれしかった。いい思い出になった。

 

【昔のこと】

 私は昔のことをよく思い出す。それも一、二才のころの事ではなかろうか。必ず思い出すことは、場所と人物が定まっているのがおもしろい。
父の実家は百姓だった。昼間は皆それぞれに働いて、日が暮れてから身体をきれいにして、座敷に集まるのだった。
私は時々祖父の担い籠に入れられて、田舎の家に連れて行かれたものだった。私はそれがとてもうれしかった。うちのものと離れて一人祖父の家に泊まるのを淋しいとも思わず却ってよろこびだった。
家族の皆が私を可愛がってくれていたのだろう。夜はふくろうが鳴くのが淋しかった。何となく悲しくなったものだった。
祖父は何時も片方の担い籠に何やらものを入れて、もう片方には私を入れてヒョイヒョイとかついで田舎のうちまで帰って来るのだった。私はそれがとてもうれしかった。
夜うちの人は皆お湯を作っていろりの周りで食事をすませた。その頃は箱ぜんだったと思う。食事が終わると、皆仏間に集まって、ふしくれ立った手にお経本を持ってお経をあげるのだった。うす暗いランプの下で、皆が声を揃えてお経をあげるのが、私はとても好きだった。きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう…
子どもの私も、わけは分からなくても胸の熱くなるのを覚えた。
今の生活は、この子供の時の体験が原点になっていると思う。その祖父もいない。父もいない。でも人間のいとなみは、こうしてめんめんと続いているのだと思う。

 

【いつちの小川】

 私はいつちの小川でよく遊んだ。水がぬるんで来るとじっとしていられなくなる。男の子も女の子も着物をまくりあげてキヤッキヤッと云いながらよく遊んだものだ。ぬるぬるした水の中に入るだけで楽しかった。めだかや水すまし、取るでもなくだだ一緒に遊んでいるだけで楽しかった。遊ぶと云ってもおもちゃがあるわけでもないし、ただめだかや水すましと遊んでいたのだ。何とのどかな風景だったのだろう。おなかがすけば、おいも、柿、いちじくなどあるものでお腹を満たしてまた遊ぶ。全く子どもの天国だったと思う。
だから私は子どもの時にうちで遊んだという記憶がなくて、遊ぶというといつちのことを思い出す。たんこちゃん、たんこちゃんと云われて私はしあわせな子供時代をいつちで過ごさせてもらった。こんなことはうちの弟妹では私だけの体験なので、うちで話したことはない。この紙面をかりて何時の日にか他の弟妹たちの目に止まることを願っている。

 

【たんこちゃん】

 私は一、二才のころたみちゃんではなく、たんこちゃんと云われていた。たんこちゃん、たんこちゃんと云われるのがうれしかった。よく遊んでいた場所も何時も同じ場所だった。遊んでいた子どもたちも何時も同じ子どもたちだった。遊んでいたおもちゃまで同じおもちゃなのだからおもしろい。人間の記憶って一体どうなっているのだろう。 
私は一才にもならない頃馬小屋の藁の中に寝かせられていた頃のことを思い出す。ふんわりとした藁の感触は悪いものではなかった。静かな一時を私は楽しんでいたのだと思う。子供の記憶っていうものは面白いものだ。一緒に遊んでいた男の子の青っパナまで覚えているのだから。何時も抱いて遊んでいた垢のついた縫ぐるみの人形まで、昨日のように思い出す。
もう一度子供の時に返りたい。あの時に一緒に遊んだ子ども達と会えるものなら、会いたいと思うようになって来た。でも残っているものが何人いるだろう。人間関係って、また原点に返るものかと思うと、面白いものだと思う。
私は一、二才頃までは父の実家で育った。何時でも思い出に出て来るのはその実家でしかない。私は田舎が好きだ。

 

【便所】

 私は女学校の頃便所の中で勉強したことがある。家は広かったが、商売をしていたし、人の出入りは多かったし、休みの日など弟たちがいて、唯一の個室は便所という事になった。そういうわけで、私は便所の中で勉強したことがある。案外いいものだった。
今の水洗式トイレではなくて、汲み取り式の便所だから事情は大分違うのだが、昔の人は我慢強かったものだ。誰かが使えば出なければならなかったが、それでも私にはいい場所だったと思っていた。
うちの便所はどういうわけか何時も父が掃除していた。母がやっているのを見た覚えはない。私は父を禅僧のような人だと思って尊敬していた。そういうわけで中はきれいに掃除してあった。
私は却って精神統一がとれてよかったと思っていた。今でも時々便所の中で勉強していた夢を見るのだから人間って不思議なものだ。

 

【盲のおばあさん】

私は二、三才の頃父に連れられて親戚のうちらしい家に連れて行ってもらったことがある。うちの中が暗くなるような大きなびわの木が一本あって、盲のおばあさんが一人いたことを覚えている。父とは親しげに話していたので、よく通じた間柄の人だろうと思った。
そのおばあさんがとても美しかったのが印象的だった。細面ての父と似たような顔をしていたと思うので、従兄弟ではなかったのだろうか。あまり長居もしないでおいとましたが、私は子ども心にもそのおばあさんにとても親しみを感じて、去り難いような気持ちになったことを昨日のことのように覚えている。
盲目の人は心が洗われているだろうから、美しく見えるのかもしれないと子ども心に思ったものだ。
それから数年経った頃、私がそのおばあさんのうちに連れて行ってもらったことを話すと、父は例の如く、
「お前はそんなことを覚えちょるか」
とびっくりしたように云った。あのおばあさんは誰だったのかと余程尋ねたかったのだが、お前は覚えちょったかという父の声があまりにもびっくりしたような感じだったので、聞きそびれてしまった。
私はそのおばあさんと言葉は交さなかったが、親しみさえ覚えたのだった。今から考えると、もう少し勇気を出して聞いておきたかったと思う。父とは親しい人だったに違いないと思ったから。父に聞こうにも、父はもういない。残念なことをしたと思っている。あの盲のおばあさんの何とも上品な顔が私は忘れられない。

 

【総代】

 私が小学校の時代は、無欠席で成績優秀品行方正の者が修業証書を代表でもらいに出ることが習慣になっていた。今の時代ではPTAが黙っていないようなことが行われていた。私は身体は小さかったが、割に健康だったので、毎年その代表に選ばれていた。 
子どもとしてはどうってことはない。今年もかという程度のものだった。その終業式の日に母は必ずいつちに寄って私の通信簿と修業証書を見せに行くのがならわしだった。学年に一人しかいないのだから、誰も彼もというわけにはいかないのに、どうしていつちに見せに行くのだろうと、私はとてもいやだった。いつちにも子どもは何人もいるのに、私はいやで仕方が無かった。祖父が生きていれば孫にもなるのだけど、おじさん、おばさんにしてみれば、何でそんなものをわざわざ見せに来るのだろうと思うにきまっている。
いやでいやで仕方がなくても、小学生の私は母にそんなことは云えなかった。自分の母を愚かしい親だと軽蔑していた。軽蔑するというより悲しかった。わざわざいつちに寄って、それからうちに帰るのではおなかも空くし、何とおろかな親だろうと思っても一ことも云えなかった。あの時に何か言った方がよかったのか、それとも言わなかった方がよかったのか、今でも私にはさっぱり分からない。
世の中には難しいことが多すぎる。こんなことが何処のうちでもあるとは絶対思わないが、私のうちでは子供を悩ませることが他所より多すぎたのではないだろうか。
子供にそんなにしっかりセエと云われても、子供にしてもやれることとやれないことがある。私はもう二度と子どもには戻りたくない。

 

【一生一度の反抗】

それは暑い夏の夜だった。明日は試験がある。疲れているけどやらなくてはならない。私は教科書を持って二階に上がった。どれくらい経っていただろう。いきなり母の大きなどなり声に私は目を覚ました。私は眠っていたのだ。
「民子は勉強しよるかと思うちょったら、こんなところで寝むっちょるやないね」
眠むっているからといって、そんなに大きな声でどならなくてもいいだろう。心の中でそう思って、私は階段を駆け降りた。それからはだしで裏の木戸から飛び出して、そのまま堤防まで駆け上った。それからは何処へ行くか考えもせず、ただ堤防の上を走った。
「もうこんな家にいるのはいやだ」「死んでしまいたい」心の何処かでそう思った。うしろの方で 
「たみ子」 
「たみちゃん」
という母の大きな声が聞こえた。堤防の上は人影もなく暗かった。私は母に掴まった。それから母に手を引っ張られて、裏の木戸からうちに入った。井戸で足を洗って座敷に上がった。そこには父が一人黙って座っていた。
「たみ子そこに座れ」
と云われて、私は云われるままに座った。
「ふじ子もそこに座れ」
と云われて、妹は私の横に座った。母も少し離れて座った。構図は整った。何と云われるかと思って、私は落ち着かなかった。父はおもむろに、
「民子が勉強したいと思っている気持ちをもう少し分かってやればいいとに、一寸も分かってやっちょらんき、こんな事になったんやないか」
と母に云った。私は父の言葉がありがたくて涙がこぼれた。
それからずっと泣きどうしだった。でもこれでは母の立場はどうなるのだろう。私は不安を感じた。妹は冷静のようだった。いやな雰囲気のなかで父も母もしゃべった。内容はよく覚えていない。四人が四様重い気分の夜だった。
翌日は目を真っ赤に泣きはらして私は何時ものように学校に行った。友だちから何か云われたらどうしようと思いながらの登校だったが誰も何も云わなかった。変だと思っても同情して聞かなかったのだろう。寝とぼけが半分だったのでこんな行動ができたのだろう。それ以来、私はこんなはっきりした意志表示をしたことは一度もない。よくやったものだ。

 

【習字】

私は字を書くのが好きだった。絵が書けないことは公表したから皆さんよく分かっていることと思いますが、字は心が安まるので、好きだった。
女学校に入ってからはかなの上手な先生がおられて私はいわゆるしびれるような気持ちになったものだった。少女趣味というようなものだったのかもしれない。日下部という先生のかなの手本がもらいたくて、私は先生の習字が習いたくてたまらなかった。
先生は放課後、希望者を残して塾のような形式で教えておられた。そこでは先生の書いた手本をいただけるのだ。私はその手本がほしかった。友達も何人も習っていた。習っている人は習字の点もいい点をもらっていたと思う。そんなことはどうでもいいことだ。ただ私は先生から直に字が習いたかった。
ある日思い切って母にそのことを話した。母は習字の月謝など問題ではなかったと思う。私はそうふんでいた。ただそんなことをすると私の帰りが遅くなることを一番嫌ったことは子どもの私にも火を見るよりも明らかであった。私は考えた。当たって砕けろという言葉もあるではないか。話すだけ話してみようと思った。母は字は上手であったし、全く理解の無いこともないかもしれないと思った。私はおそるおそる話してみた。母はいやとは云えず一応承知してくれた。
私はうれしかった。それからはじめての習字の日に、私はうれしくて天にも昇りたいような気持ちで授業を受けて帰った。裏の木戸から「タダイマ!!」
と大きな声でうちへ入った。誰一人返事が無かった。いやな予感がしたがもう手遅れだった。お勝手から入って行くと母が忙しそうに夕食の仕度をしていた。何時もは私がすることを母はただ黙ってやっていた。それは無気味だった。
「おそかったね」
とでも云ってくれればまだ気持ちの持っていきようもあろうというもの、何一言言わずにセッセと仕事をしている母に、私は凄みさえ感じた。その日の食事は私の喉をどのように通って行っただろうか。私はそれ以来習字を習うことを諦めた。
こわいことは一番身近なところにあるものだと私は感じるようになった。何時の日かそうでなくなる日の来る事を願って。

 

【一升瓶】

小学校へ上がった頃から私はよくうちの手伝いをさせられた。町のはずれまで一升瓶を持って醤油を買いに行くのは何時も私の役目だった。やせて身体の小さい私には、それは大変なことだった。私は一度もいやな顔をしなかった。出来なかった。小さい子どもを育てながら、母は洋品店をしきっていたのだから、大変だったのだろう。
「民ちゃん醤油を買うて来なさい」
母にそう云われると、私は何をしていても母の云うことを聞かなければならなかった。町のはずれまで一升びんを持って醤油を買いに行く。私にはとてもいやな仕事だった。途中で落としはしないだろうか。ブッツケはしないだろうかと何時も心配だった。子供心に全神経を集中させて、うちまで持って帰ったものだった。行きは空びんだから何てことは無い。店に行くと何時もおじさんはニコニコして私を迎えてくれた。
おじさんが樽の下にびんをおいて、樽から醤油をなみなみとびんの中に入れると、何時でも醤油は口のとこまで来ると、アブクになってじょうごからこぼれ出した。びんをつたわってこぼれ出すアブクが、何故か私はいやだった。それからおじさんは醤油色のしみこんだふきんでびんを拭いて、
「気をつけて持って帰りなさい」とやさしく云ってくれたものだった。
途中で重たくなって、どうしても持てなくなると、私はソーッと地面にびんを下ろした。昔の田舎道のことだ。石ころはゴロゴロ、牛や馬のふんはそこいらに落ちているような道で、私は一升びんを下に下ろしては休んだ。一休みすると、又両手で持ち上げて歩いたものだった。この動作を何度か繰り返してやっとうちへ辿り着いて、
「買おて来たばい」
と母に云った。忙しそうにしている母は
「そこにおいちょきなさい」
と云うだけだった。
「重たかっちょろ」
と云ってもらっただろうか。記憶はない。

 

【べんとう】

「たみちゃん起きなさあい」 
「あれ」 
祖母の声だった。
「そうだ」 
「今晩泊るから、明日の朝は用意してあげるねえ」
と昨晩祖母が云ったことを思い出した。
起きて行くと茶の間には電気がついていて、部屋の真ん中には七輪に豆炭がアカアカと盛り上がっていた。暖まった部屋に私は何とありがたいことだろうと思った。 こんな朝ははじめてだった。それから祖母はおべんとうを持って来て私に見せた。
「何も無かったからいりこ(小さな煮干し)の玉子とじ、それから人参しか無かったので人参を煮たよ」 
と云ってにこにこしながらべんとうの中を見せてくれた。黄色い玉子とじと赤い人参、色どりもよく体裁よく詰めてあった弁当が私はうれしかった。
この人は何という知恵者だろう。さりげなく、あるもので心のこもったこんなべんとうを作ってやれるなんて‥‥  私は祖母にべんとうまで作ってもらえるとは思ってもいなかったので、ただうれしかった。私が女学校に行くようになって、初めて人から作ってもらったべんとうだった。私は毎朝かまどでごはんを炊いて、それを詰めて弁当を作って通学していた。
私は五人の子供の弁当作りをやってきたが、よくこの朝の一コマを思い出していた。あの限られたスペースに詰めるからべんとう作りは心が詰められるのだと思って来た。
遠足の時など、皆はおいしそうなべんとうを持って来るのに、私は何時もあり合わせのものを詰めて行く自分のべんとうがみじめで、汽車弁を買って持って行っていた。うちが店をやっていたので、母は夜が遅いから朝は起きてもらったことは無かった。それだけに、朝のべんとう作りは母親の特権だとさえも思って来た。