母の随筆1

 

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原 民子 平成30年2月14日没 享年98歳



 

【一人暮らしの対話】

私は現在七十八才のひとり暮らしの老婆である。五人の子どもを育て、夫を十年ばかり前に見送って、現在正に一人ぐらしをしている年老いたばあさんである。
五人の子どもは、それぞれ自分の世帯を持って独立している。せちがらい世の中である。いろいろと大変なこともあろうが、それぞれに何とかやってくれていることは、私の悦びである。
一緒に暮らしてはどうかと、子どもとの同居をすすめて下さる方もあるが、私はまだその決心がつかないでいる。私は頑固なのだろうか。勇気がないのだろうか。多分その両方なのだろう。
私の夫も、私と似たもの夫婦というか、私と同じ考え方の人のようだった。全くさびしいと思わないと云ったら嘘になるだろう。人間、誰と一緒にいても、さびしいと思えばさびしいし、さびしいと思わないでいられる知恵が自分に備わっていれば、さびしいと思わないですむのではないかと、私は思うのだが…
自分一人になって、満たされたものを感じることが出来たら、それが知恵の働きというものではなかろうか。それはいくら求めても得られるものではないもののような気がする。自分がその知恵を与えられるに値するようになった時に、大きな力によって与えていただけるようなものだろうと思うのだが。
つい先日娘から何か書いてみないかという誘いがあった。とんでもないことと思った。この頃は本もあまり読んでいないし、まして書くなどということは若い頃から私のやれることではないと思っていた。しかし、あまりにも熱心な娘のすすめにむげに断わるのもどうかと思うようになった。
先ずペンを持って何を書こうかと考えなければならない。この作業が案外自分の為になることが少し分かって来た。一人でいると話をすることは少ないし、つい考えることも少なくなっていたのかとこわいような気持ちになった。
書こうと思えば書く為に言葉を探さなければならない。これがいいものをもたらしてくれるような気持ちになって来た。
一人暮しで対話するには書くことがいいように思えるようになりつつある。

 

【あだばな】

それはある暖かい昼さがりの縁側だった。夫と私は何をしていただろうか。新聞でも広げていただろう。退屈さを持てあまして私は話し出した。
「もし私が死んでも、私は子どもを育てたということしか残らない。でもあなたは、多くの学生を教えて、作品を作って、テレビに出て新聞を書いて・・・」と続けた。夫は何と云うだろうと私は思った。私は夫の言葉を待った。夫のいわく、
「テレビに出たことも、新聞に書いたこともあだ花のようなものだ。作品も作っている過程では意味があるが。そう、あとには残らない」とサパッと言い切った。そんなことを云ってもいいのかしらと、私は意外に思った。あんなに神経をすりへらすようにしてやった仕事をあだ花のようなものだったと云う。
「おれのほんとうの仕事は今のこの生活だ」と云ってくれた。その当時、私は体調がすぐれず、何かと夫の世話になっていた情けない状態になっている女房の世話をしているその状態を。最も大事な仕事はこれだと言い切ってくれた夫、私はありがたくて涙がこぼれそうになった。その夫は今はもういない。

 

【たみちゃん】

ある時夫は小さな声で、私にたみちゃんと呼びかけてくれた。耳ざとく聞きつけた私は、直ぐに夫の方を見た。彼はニターと笑って私の方を見ていた。何てことは無い。私の呼び名である。
小さい時から何時もたみちゃん、たみちゃんと呼ばれて来た呼び名だけど、六十も過ぎると、とても新鮮に聞こえて、不思議な響きを感じた。周りには誰もいなかった。夫はいたずらっぽい顔をして、じっと私を見ていた。彼らしいと思ってうれしかった。
結婚した当時は、たみちゃんと云われていただろう。そのうちに周りのことも気になって、何と呼ばれていたか記憶にない。それから夫はよく子どもがいないところではたみちゃんと呼んでくれた。子どもが一人でもいると、必ずお母さんだった。夫とて明治の男だから子どもの前では面子があったのだろう。
ある時夫は私の実家で周りに沢山の人がいるところで、私のことをたみちゃんと云ってくれた。私の実家ではそんなソフトな夫など想像もしなかっただろう。うちへ帰って私がそのことを話すと、夫は意地悪そうに、一ぺんくらいたみちゃんと云ってやれと思って云ったんだと云った。私はうれしかった。何と気味のいいことを云う人だろうと私は夫を頼もしく思った。
何でも格式ばかり気にしている田舎では、夫は異例の人としてあまり歓迎されていなかったようだ。新しい人は田舎の人には往々にして嫌われるのだから仕方がないのかもしれない。

 

【なむあみだぶつ】

ある時夫は突然、
「おれはなむあみだぶつが云えないんだ」と言った。
何とすなおにいってくれたのだろう。言いたい気持ちがあったからこそ自然と出た言葉だろうと思った。私は小さい子どもが自然に、親に訴えるように云ってくれたような感じがして、とてもうれしかった。頑固が背広を着たような人だと思っていたのに、何時の間にか人間ってこんなに角がとれて来るものかととてもうれしく感じた。
又ある時こうも云った。
「年を取ることはいいことが一つある。年を取ると死ぬことをさほどいやな事だと思わなくなって来る。若い時は、死ぬということが、どんなにつらいことか、たまったものではないよ。それが年を取って来ると、さほどいやでなくなるのだからありがたいことだ」と極く自然に話してくれた。何とすばらしい心境だろうかとうれしく思ったことだった。こんな風に年を重ねてくれて立派だと思った。私も見習いたいと思った。
「おれはやりたいことは皆やった。だから思い残すことは無い」と云って亡くなった。私もあやかりたいと思う。

 

【すまなかったねえ】

それは夫の亡くなる一週間くらい前のことだったでしょうか。周りには誰もいませんでした。私が一人で見守っている時でした。夫は何かものが言いたそうな様子を見せました。私が側に寄ると、
「すまなかったねえ」
とただそれだけ云ってくれました。何とやさしい言葉でしょう。私はその言葉を、どれだけ大事にうれしく思ったことでしょう。それから幾日も経たないうちに帰らぬ人となってしまいました。
夫が亡くなった後で息子に、おやじは何か云って行ったかと聞かれましたが、私はこのことを云うことが出来ませんでした。誰もいない時に、私にだけ「すまなかったねえ」と云ってくれ夫、どんなことを考えて云ってくれたのか、私は考えることもできませんでした。
この紙面をかりて、子ども達に伝えたいと思って書くことを決心しました。だまっていてごめんなさい。でもあの時はとても云えませんでした。

 

【夫のブロンズ像】

うちには大木祥作氏の夫のブロンズ像があります。夫が亡くなる前から制作にかかって下さって、出来上がった時にはもう亡くなっていましたが、本人も承知の作品で立派な胸像です。
私が一人暮らしを始めても、とても元気に生活させてもらえたのは、正にこのブロンズ像のお陰ではなかったでしょうか。どんなに私に元気を出させてくれたか、言葉では到底言い尽くせません。夫婦とは不思議なものです。私の寝室においているのですが、負け惜しみではなく、淋しいと思ったことはありません。彼もきっと淋しいとは思っていないだろうと思えるところが面白いです。
引っ越す前に置く場所は何処にするかと大分考えたのですが、結局私の考えで、私の寝室におくことにしました。正に正解でした。
こちらの方にお寄りの節は是非ご覧になって下さい。大木さんに改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 

【民ちゃんチョットおいで】

私は母に
「たみちゃんチョットおいで」
と云われるのが一番こわかった。一番いやだった。やさしく云っているつもりだろけど、その時は必ず私にとっては、とんでもないことが話されることになっていた。
その場所は何時も二階だった。誰一人として寄せつけられないところだった。その時もそうだった。母はいそいそと先に二階に上がっていた。何を話されるか、私には想像はついていた。原稲生と婚約を私に納得させる為だった。
広い家でもないうちの中、誰が何を話しているかみんな分かってしまうではないか。前日からの父と母と稲生の話しは一部始終聞こうとは思わなくても私の耳には入っていた。父は何も云わなかった。稲生は最初は
「私が話してみようか」
と云っていた。私はその言葉に真実味を感じてうれしかった。自分で責任をとるという気持ちは好感が持てた。すると母は
「私が話す」
と云った。何と傲慢な態度だろうと私は悲しくなった。でもこれが母の総てなのだから仕方が無いのかもしれない。母のいわくには
「民子の気持ちはみんな分かっちょる。民子の日記を読んでいるから、あの子が何を考えているか一番よう分かっちょる」
というではないか。私は最低だと思った。狭いとっころで話しているのだから幸か不幸か何もかも聞こえてしまう。 
私の学校では日記を書かせて、それを一週間に一回提出することになっていた。その日記を母はうちの家事をする暇は無くても、私の日記を克明に読む時間はあったのだろうか。それを何の恥じらいもなく堂々と云ってしまう母を私は腹を立てるより悲しくさえ思った。私も母も不幸だったのだと思わなければ救われない。民子のことは私が全部分かっちょると大見栄を切る母には父も夫も何も云えなかっただろう。
それからしばらくして母が一人二階に上がって来た。泣きじゃくっている私に何やらもっともらしい事を一通り並べて母は話していた。
私はあんなに泣いたことはない程泣いた。自分という人間のことをこんなに度外視して事を運んでいくことがただただ悲しかった。
そうしてスタートした夫婦ではあったが、神様にはしっかり眼にとめられてこんな夫婦になれました。神様は必ず居られます。ずるい事をすればそれなりにおしかりをしっかり受けなければならないし、耐えるべく耐えて行った人は神様はどんな小さい事でも決してお見逃しにならないというのが私の乏しい人生からしっかり感じとった大きな力です。皆さん決して諦めずに一生懸命に生きようではありませんか。私も生きます。

 

【むげない】

それは宮参りの日だった。私はいやでも花嫁衣装をつけてお宮参りをしなければならなかった。この日ばかりは一切の感情を抜きにして私は云われるままに従った。前にも後ろにも近所の子どもたちがゾロゾロ着いて花嫁は近所の氏神様にお参りしなければならないことになっていた。
お宮参りを終えてうちに辿り着いた時だった。うちの中は手伝い人たちでゴッタ返していた。丁度その時タイミングよくうちの遠縁のキップのいいおばあさんがうちの中に入って行った。入るといきなり大きな声で、
「あんたは何でたみちゃんにこんなむげないことをさせるんねえ。たみちゃんのような娘は何処からでももらい手は何ぼでもおる。何処の馬の骨ともわからん人に何で急いでやらにゃならんとねえ」
と大きな声でどなり込んだ。うちの中も人で溢れんばかりのところで云ったのだから迫力があった。私はそのおばあさんが好きだった。男のようにキップがよくて、男まさりの大きなダミ声で云うところなど大したものだった。私の結婚はやっぱりむげない結婚なのだと思った。
母は体裁が悪かっただろう。親戚の人や近所の人が一番多く集まっているところで云われたのだから・・・
近所の人は最高に面白かったことだろう。母はその後随分ひどい事を云うものだとこのおばあさんのことを散々悪く云っていたが、私は却ってよかったと思った。ものごとは大体こういう風になって行くのかと、私は大人の世界をかいま見たような気がしてほっとした。
それから「むげない」という言葉を字引きで引いて見ることは忘れなかった。私の田舎では、ほんとうに可哀相だという時にはむげないという言葉を使う。タイミングよくうちにどなり込んでくれたおばあさんに、その後は会ったことは無かったが、私はそのおばあさんをとても好きだった。
そんなことがあって結婚をスタートさせた私のこと、いろいろと人とは変わったことがあっても当然だと思って生きてきた。
こうして書けるようになったことでもえらいもんだと思っている。結婚式の日は私は人生最高の屈辱の日だと思った。

 

【一枚の写真】

私には傑作の写真が一枚ある。結婚式の写真だ。女であれば誰しも最高に美しく撮ってもらいたいと思うであろう写真が、私のはチト違う。こんなこわい顔をしてにらみつけているような写真が、外にあるだろうか。事実をそのまま写出すから写真というのだと感心している場合ではない。
出来上がった写真を見て母は何と思っただろう。高い着物を着せれば、娘は美しく写れるとでも思っていたのだろうか。着物では無いですよ。要は中身ですよ。
でも私はこの写真に満足である。うれしくもないのにうれしいような顔をしなければならない方が、もっと辛かっただろう。私は自分の心のままが出ていてほっとしている。私は人の前で上手が作れないのだ。写真はほんとうに心を表わしてくれるものだと、感心したのだった。自分をアピールしたのだから、自分は立派だったと思う。
誰一人相談にのってくれる人もなく、ただ自分の中でもんもんとしていた自分を分かってくれていたのは、誰でもない唯自分一人だったのだから、こんな顔になって当然だったと思う。
私にとっては記念すべき一枚の写真である。でもその写真はあまり長く見ていたいと思わない。自分が可哀相に思えてくる。夫と一緒にその写真をじっと見つめた記憶はない。

 

【カサカサの手】

「お前の手は軟らかくなったねえ」 
ある時夫は突然そう云った。
「おれはガッカリしたよ。結婚した頃お前の手はカサカサだったよ」
「そうだったでしょうねえ」
とは私は云えなかった。事情を知らない夫に云いたくはなかった。
母は私のことは早く嫁には出したい、うちの手伝いはさせたいというわけで、式の前日まで流しで働かせた。薪は割るし、かまどでご飯炊きはするし、私の手はひび、あかぎれでひどかった。
お嫁さんを作ってくれた髪結さんに 
「民ちゃんの手はどうやろか。お嫁さんを作らにゃならん人が、こんな手をしちょって・・・」
と云われたのを覚えている。母は気まり悪そうに 
「民子はゆっくりさせてやりたいけど、つい忙しいもんやき、仕事をさせてしまうんで・・・」
と苦しい云いわけをしていた。
夫には多分事情は分かっていなかっただろう。
私は自分の過去を少し虫干ししようかと思うようになって来た。
父も母ももういないし、過去を虫干しすると、私も少し変われるかもしれないと思えるようになった。さて、いかに虫干しするかがむつかしい。

 

【太平洋をボートで一人旅】

いろいろな過程を通って、私たちは母の意志通りに結婚することになった。はっきりそうと定まった時に、幼い私の考えた事は、太平洋をボートで一人旅をするようなものだという思いだった。その気持ちになれば、やれないことは無いだろうという思いだった。死ぬ覚悟になれば何でもやっていけるだろうと思った。
正にそうだろう。でも結婚というものはそんな気持ちにまでなってするものではないだろうと思ったが、幼い私の頭ではそう考えて越えて行くのが精一杯だった。
結婚後十年以上も経った頃だっただろうか、私は和子にその頃のことを少し話した事があったが、その後は話した事さえすっかり忘れていた。
この鴨志田で一人暮らしをすることを決心した時、和子がふと云ったことが忘れられない。
「お母さんは、また太平洋をボートで一人旅をするようなものね」と云ってくれた。あんな昔に云ったことを、よく覚えていてくれたことと、とてもうれしく思ったことだった。

 

【天の下】

 私は鴨志田の地に移り住んでもう十年になろうとしている。正にもう鴨志田の住人になりすましている。此処へ来た当時は右も左も知った人は一人もいないし、娘が近いところにいると云っても、バスで十分以上もかかるようなところで、昼間は仕事を持っているし、正に私の生活は勇気のいる生活だった。
周りは自然に恵まれているので、歩くには最高のところだった。近いところを毎日歩くのを日課にしていた。
ある日、私は何時も歩いているところを一人で歩いていた。それはとてもよく晴れた日だったので、真青い空の下を一人で歩いていた。両側は森になっていた。うっそうとした森でがまの穂を見かけたこともある。何とすばらしい自然であったことか。
何かと思ったら大きな蛇だったこともある。私はふと上を見た。
あれ!!天の下だ!!ここは天の下だ!!
空の下というより正に天の下というのがピッタリだった。
生きるも死ぬるも天の下なのだ。あの人だってお墓の中には入っているではないか。お浄土なんてあるのか無いのか分からないようなところに行ったというから淋しいのであって、生きるも死ぬるも天の下ではないかと思った途端に私は一寸も淋しいとは思わなくなっていた。亭主はここにはいないけれど、同じ天の下で、ここに一緒に歩いているのだ!!と思ったら、とても元気が出て来て夫と二人で手をつないで歩いているような気持ちになれた。それから来る日も来る日も一寸も淋しいと思わないで一人で歩くことを楽しめるようになった。
このようなことをお寺で話したらどう言われるでしょうか。私はまだ誰にも話したことはありませんが。空の下というのでは私の気持ちにピッタリではないのです。天の下でないとどうもピッタリして来ません。それからは、外を歩く時には何時も亡くなった亭主と一緒に歩いているような気持ちになりました。皆様はどのようにお考えでしょうか。お聞かせいただければありがたいです。

 

【早く年を取りたい】

私は結婚して六十代くらいまでは早く年を取りたかった。二十八才と十七才の男と女の結婚では誰が考えても無理があると思うでしょう。正にそうでした。私は早く年を取りたかった。年を取って、対等に相手にものが云いたかった。どう考えても向こうの言い分は無理だと思っていても、幼いという事は情けないことで、何時も私は我慢せざるを得なかった。
今彼が生きていたら、どんなやりとりをしているでしょう。残念です。こっちが一つ年をとれば相手も一つ年をとることになるのですが、私は年をとるのがとてもうれしかった。だから若さを喜ぶなどという経験は私には無い。少しでも年が近づいて向こうをやっつけたいと思うことばかりだった。こわい嫁さんでした。
でも年が多くなるにつれて、二人の差は相対的に縮んで来ました。私はうれしかったです。頭に白髪が出て来た時など「ヤッター」と最高の気分でした。でも人間とは全く勝手なもので、この頃はもう少し若くありたいと思うのですから始末に終えません。

 

【山内先生のこと】

 山内先生は、うちの子どもたちが幼稚園から小学校の頃、三軒茶屋の光昭幼稚園でピアノを教えて下さった先生です。もう二十年くらい前に亡くなられた方ですが、うちの子ども達のみならず、私の方が却ってお教えを受けたような方です。
ピアノは当然ですが、リトミックの指導もしておられた方なので、リズム感がとても素晴しくて、明るくていい先生でした。子どもがピアノを弾いていると、何時も後ろの方で一人でダンスをしておられました。
私がこうして、今日まで大きなつまづきもなくやって来れたのは、先生が陰でどれほど助けて下さっていたか分かりません。
お小さい時、お父様が牧師さんでイギリスの生活がおありだそうで、イギリスでは、どんな小さな家からでもオルガンの音が聞こえて来ていたと話されたことを思い出します。
先生からお手紙を沢山いただきましたが、私が一番感銘を受けたのは、よろこびも悲しみも沢山経験した原さんを、とてもしあわせな人だとうらやましいとさえ思っていましたというお手紙でした。
「もの好きねえ、子どもを五人も持ってアクセクしているなんて」
とでも云われても仕方のないような私の生活を、そのように見て下さっている方もおられるのかと、私はうれしく思ったことでした。
何とか皆育ってくれましたが、全く一時は身体が幾つあっても足りないようでした。どんなにつらい事があっても先生から
「原さん大丈夫よ」
と云っていただくと、ほんとうに何とかやっていけそうだという気持ちになれたのが不思議でした。それほど私は、先生のお声は神の声のように思っていたのだと思います。実際、何時も何とか越えて来れましたから・・・
不思議な力を私に与えて下さった方でした。今度お会いしたら、先生のお言葉通り励みましたら、私のようなものでも何とか生きてくることが出来ました、としっかりお礼を申し上げたいと思っています。

 

【絵】

 私は絵を書くことが下手だ。まさに下手だ。どうしてこうもも下手に産まれ着いて来たものかと、自分の出生をうらんだことさえある。でも誰のせいでもない。産まれつき美人に産まれる人もあれば、そうでない人もあるようなものだろう。理屈はどうであれ、私は絵が下手だ。
夫は芸術を職業としていたのだから、さぞや私のことを情けなく思っていただろう。夫はそういうものは超越していたのかもしれない。えらい人だったと今では思う。でもそんなことを一言もグチッたことは無かった。馬鹿にしたことも無かった。あの人のいたわりだったのだと今では感謝している。
字はまた別で何とか人並みには書けた。字を書く機会の方が多いから、その分では助かったのかもしれない。
以前に英語をやっていたことがあった。先生が英語で云ったことを絵にするのだが、友だちのはチャント絵になっているのに私のは何の絵だか分からない。犬なのか猫なのか、男の子なのか、女の子なのか分からないおかしな絵に、先生は何時も楽しそうに笑っておられた。笑われるとクラスは明るくなるけど、私は何となく情けなくなるが、いやな顔も出来ずに何時もテレ笑いをしていた。
英語の話を絵にするのが、私は一番にがてだった。先生は最高にほがらかな方だったのに、先生に答えられなくて、私は何時も自分がみじめだった。
絵がうまいとまでいかなくても、人の半分くらい面白く書けたら、どんなに人生は面白くなれただろうか。
私は性格的に、答が一つになるものに引かれるような融通のきかない性格であると思うので、そのせいで絵が書けないのかと思っている。
どうしても自分で面白く作ることの出来ない自分の性格、融通のきかない自分をなげいている。もう八十にもなろうとしている老婆は無理な話だと思うが、どなたか名案があったら教えて下さい。お願いします。

 

【ふぐ料理】

 私の田舎は冬の来客と云えば、必ずふぐ料理でもてなすのが習慣だった。結婚後数年たったある年、私たち夫婦は帰省することになった。
その晩は例によって豪華なふぐ料理だった。大きな鉢に美しく盛られたふぐの刺身は、正に芸術品のようだった。父は、
「さあ食べろ」
「さあ食べてくれ」
と、サービスにこれ努めていた。酒もまわって宴も酣になった頃、私はあまりのおいしさに、
「ふぐってこんなにおいしいものなの!!」
と実感をそのままに吐露した。こんなおいしいものは食べたことは無いというのが本音だった。
「お前は食べたことは無かったか?」
直ぐに父の声が返って来た。
「無かったよ」
「そうやったかねえ?」
けげんそうに父はそう言った。
「私たち子どもはふぐ料理の時は、あっちの方で他のものを食べていたもん」
そうだった。私は結婚するまでは、来客の時は弟や妹たちと一緒に他のテーブルで子ども向けのものを食べさせられていたのだ。
「そうだったか。すまなかった」
とは父は言わなかったが、言外の父の言葉は私にはよく分かった。父のぬくもりを感じて胸が熱くなった。母も夫も何も云わなかった。皆黙って箸を進めていた。それから私は一人何も云えずに、その晩のふぐ料理は黙っていただいた。少しほろにがい味のしたのは何のせいだっただろう。夫には多分、分かっただろう。

 

【玉子焼き】

 戦時中から戦後にかけては玉子は貴重な食料資源だった。私が女学校の頃、私は何時も隣の綾子ちゃんを誘って学校に行くのが習慣だった。私の方が少し早くうちを出て、綾子ちゃんのうちに行くと、何時も綾子ちゃんのお母さんが玉子焼きを焼き上げて切るところだった。フワフワの玉子焼きを切るのを見ながら、私は何時も母親のぬくもりのようなものを感じてうらやましいなあと思っていた。私は何時も佃煮と漬けものなどを自分で詰めていたのだから…
玉子焼きを弁当に入れてやりたい一心で、戦後東京に移り住んでからは、うちでにわとりを飼った。はじめて鶏が玉子を産んだ時のよろこびは忘れもしない。まだ暖かい玉子を持って来て、直ぐに玉子焼きを作ったものだった。
子どもの弁当に玉子焼きを入れてやれるのが、あれ程の喜びだったのに、世の中は変わったものだ。今は玉子焼きをさほどよろこぶ子どもはいないのではないだろうか。貧しい時には、それなりの喜びがあるものだとつくづく考えさせられる。これからの世の中はどうなっていくのだろう。

 

【えらいもんだよ】

 ガヤガヤ、ワヤワヤ久しぶりの再開を喜んで同総会は盛り上がっていた。その中で一際声の大きな音楽の青山先生が、 
「久原さん、あんたは大きいなったねえ。結婚して大きいなったねえ」と云われた。
何とうれしいことを云って下さるのだろう。一番うれしいことを云われて私は最高だった。親にもこんなことは云われたことは無いのに‥‥ 
でも先生の風ぼうはどこか父に似ていると前から思っていた。
私はうちへ帰って夫に、青山先生から結婚して大きくなったねえと云われたと話した。夫のいわく 
「おう、俺が大きくしてやったんだ。子どもを産みながら大きくなって、えらいもんだよ」 
「何がえらいもんですか」
これが私の人生だった。
先生と夫とは一緒に呑む機会を持ったこともあって、お互いに親しくなれたようだった。
何時頃からか年賀状を出すようになって、夫は毎年先生宛に夫の名前で年賀状を出していた。それに対して先生からは必ず私宛の年賀状が来ていた。でも翌年には、夫はまた先生宛に出していた。そんなことが十年近くも続いただろうか。私は夫にはなにも云わなかった。いや云えなかった。どちらもそれぞれに何か思いがあったのだろう。
今は二人とも故人になって何を聞くよしもないが書いていて鼻の奥がツーンとして来た。書く作業は不思議な作業だ。

 

 

【じゅくし柿】

秋も深くなると柿はまっ赤に熟してジャムのようにおいしくなるのだ。鳥などにたべられないうちに農家では大事に取っておいてじゅくし柿として高い値をつけて売るのであった。母はよくそのじゅくし柿を買っておいて、子どもではなく特別のお客さんに出すのだった。
稲生がうちにいた頃、母はよくその柿を買っておいて、子ども達のいない時に稲生にサービスしていた。私はその光景を見るのが何時もつらかった。子どもに親は食べさせたいと思うのに、何で大人の稲生に食べさせるのだろう。事情を知っている私には内緒にしておくわけにはいかず、二度に一度くらいは私も食べさせてもらったが、一寸も食べたいとは思わなかった。食べたい盛りの子どもが何人もいるのに、何で他人に食べさせるのだろうかと何時もいやな感じがした。母はそうまでして稲生の心をひきつけておきたかったのだ。
何時だったか、稲生が「あのじゅくし柿はおいしかったねえ」と云ったことがあった。私は悲しかった。何も知らない稲生は子ども達も皆食べていたのだろうと思っていたのだ。当然だ。母はそうまでして稲生の気持ちを引きつけて、私と一緒にしようとしたのだった。私が知らなければそれですまされるのだけど、一部始終を知っている私はどう考えればいいのだろう。ただこわいと思う気持ちだった。その母も今はいない。

 

【父のヴァイオリン】

 私の一、二才の頃のことだっただろうか。私は小さい時のことはよく覚えている。うちにはヴァイオリンがあった。父がそのヴァイオリンを弾いてくれた。
オーレはかわらのカレススキ…おまえもかわらのカレススキ…
歌詞はよく覚えていないが、ヴァイオリンの曲としては最もポピュラーな曲ではなかっただろうか。私は父のヴァイオリンをはじめて聞いて、天にも昇りたいようなうれしい気分になった。私にねだられて父はまた二、三曲弾いてくれたような気がするが、何の曲だったか覚えていない。
私は自分の父のことを人に自慢したいほどのよろこびを感じた。私がその後音楽を好きになったのは、その父のオーレはかわらののカレススキの曲が原点になっていると思う。どんなに自分の父のことを誇りに思ったことだろう。
父には夢があったのだ。夢とロマンを持っている人は話せる人だと私は何時も思っている。夢やロマンを持っている人は年齢を超越して話しが出来るし、ユーモアは解せるし、私の最も好きなタイプの人物だ。
父のこととは別の話しになるが、私の話しは何時もこういう風になるからと嫌われそうだけど、一寸聞いてもらいたい。
私が女学校の一年の時のことだ。女学校では天長節ならぬ皇后陛下地久節と云って、その日は一年に一回音楽会を開く日になっていた。私は歌はきらいではないし、一応クラスから一人だけ選ばれて、その中の一人が独唱することになっていた。うちのクラスからは私が選ばれた。放課後各クラスの代表がテストをして、学年代表を定めることになっていた。
その時間が来た時、私の脳裏に去来したものは、またこんなことで遅く帰ったら母にいやな顔をされるということだった。私はテストの時は声をセーブして歌った。先生は変だと思われたと思う。でも私はそうせざるを得なかった。でも「流浪の民」の時はソロで歌わしてもらったのでうれしかった。青山先生には総て分かっていただけたような気がして最高にうれしかった。いい思い出になった。

 

【昔のこと】

 私は昔のことをよく思い出す。それも一、二才のころの事ではなかろうか。必ず思い出すことは、場所と人物が定まっているのがおもしろい。
父の実家は百姓だった。昼間は皆それぞれに働いて、日が暮れてから身体をきれいにして、座敷に集まるのだった。
私は時々祖父の担い籠に入れられて、田舎の家に連れて行かれたものだった。私はそれがとてもうれしかった。うちのものと離れて一人祖父の家に泊まるのを淋しいとも思わず却ってよろこびだった。
家族の皆が私を可愛がってくれていたのだろう。夜はふくろうが鳴くのが淋しかった。何となく悲しくなったものだった。
祖父は何時も片方の担い籠に何やらものを入れて、もう片方には私を入れてヒョイヒョイとかついで田舎のうちまで帰って来るのだった。私はそれがとてもうれしかった。
夜うちの人は皆お湯を作っていろりの周りで食事をすませた。その頃は箱ぜんだったと思う。食事が終わると、皆仏間に集まって、ふしくれ立った手にお経本を持ってお経をあげるのだった。うす暗いランプの下で、皆が声を揃えてお経をあげるのが、私はとても好きだった。きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう…
子どもの私も、わけは分からなくても胸の熱くなるのを覚えた。
今の生活は、この子供の時の体験が原点になっていると思う。その祖父もいない。父もいない。でも人間のいとなみは、こうしてめんめんと続いているのだと思う。

 

【いつちの小川】

 私はいつちの小川でよく遊んだ。水がぬるんで来るとじっとしていられなくなる。男の子も女の子も着物をまくりあげてキヤッキヤッと云いながらよく遊んだものだ。ぬるぬるした水の中に入るだけで楽しかった。めだかや水すまし、取るでもなくだだ一緒に遊んでいるだけで楽しかった。遊ぶと云ってもおもちゃがあるわけでもないし、ただめだかや水すましと遊んでいたのだ。何とのどかな風景だったのだろう。おなかがすけば、おいも、柿、いちじくなどあるものでお腹を満たしてまた遊ぶ。全く子どもの天国だったと思う。
だから私は子どもの時にうちで遊んだという記憶がなくて、遊ぶというといつちのことを思い出す。たんこちゃん、たんこちゃんと云われて私はしあわせな子供時代をいつちで過ごさせてもらった。こんなことはうちの弟妹では私だけの体験なので、うちで話したことはない。この紙面をかりて何時の日にか他の弟妹たちの目に止まることを願っている。

 

【たんこちゃん】

 私は一、二才のころたみちゃんではなく、たんこちゃんと云われていた。たんこちゃん、たんこちゃんと云われるのがうれしかった。よく遊んでいた場所も何時も同じ場所だった。遊んでいた子どもたちも何時も同じ子どもたちだった。遊んでいたおもちゃまで同じおもちゃなのだからおもしろい。人間の記憶って一体どうなっているのだろう。 
私は一才にもならない頃馬小屋の藁の中に寝かせられていた頃のことを思い出す。ふんわりとした藁の感触は悪いものではなかった。静かな一時を私は楽しんでいたのだと思う。子供の記憶っていうものは面白いものだ。一緒に遊んでいた男の子の青っパナまで覚えているのだから。何時も抱いて遊んでいた垢のついた縫ぐるみの人形まで、昨日のように思い出す。
もう一度子供の時に返りたい。あの時に一緒に遊んだ子ども達と会えるものなら、会いたいと思うようになって来た。でも残っているものが何人いるだろう。人間関係って、また原点に返るものかと思うと、面白いものだと思う。
私は一、二才頃までは父の実家で育った。何時でも思い出に出て来るのはその実家でしかない。私は田舎が好きだ。

 

【便所】

 私は女学校の頃便所の中で勉強したことがある。家は広かったが、商売をしていたし、人の出入りは多かったし、休みの日など弟たちがいて、唯一の個室は便所という事になった。そういうわけで、私は便所の中で勉強したことがある。案外いいものだった。
今の水洗式トイレではなくて、汲み取り式の便所だから事情は大分違うのだが、昔の人は我慢強かったものだ。誰かが使えば出なければならなかったが、それでも私にはいい場所だったと思っていた。
うちの便所はどういうわけか何時も父が掃除していた。母がやっているのを見た覚えはない。私は父を禅僧のような人だと思って尊敬していた。そういうわけで中はきれいに掃除してあった。
私は却って精神統一がとれてよかったと思っていた。今でも時々便所の中で勉強していた夢を見るのだから人間って不思議なものだ。

 

【盲のおばあさん】

私は二、三才の頃父に連れられて親戚のうちらしい家に連れて行ってもらったことがある。うちの中が暗くなるような大きなびわの木が一本あって、盲のおばあさんが一人いたことを覚えている。父とは親しげに話していたので、よく通じた間柄の人だろうと思った。
そのおばあさんがとても美しかったのが印象的だった。細面ての父と似たような顔をしていたと思うので、従兄弟ではなかったのだろうか。あまり長居もしないでおいとましたが、私は子ども心にもそのおばあさんにとても親しみを感じて、去り難いような気持ちになったことを昨日のことのように覚えている。
盲目の人は心が洗われているだろうから、美しく見えるのかもしれないと子ども心に思ったものだ。
それから数年経った頃、私がそのおばあさんのうちに連れて行ってもらったことを話すと、父は例の如く、
「お前はそんなことを覚えちょるか」
とびっくりしたように云った。あのおばあさんは誰だったのかと余程尋ねたかったのだが、お前は覚えちょったかという父の声があまりにもびっくりしたような感じだったので、聞きそびれてしまった。
私はそのおばあさんと言葉は交さなかったが、親しみさえ覚えたのだった。今から考えると、もう少し勇気を出して聞いておきたかったと思う。父とは親しい人だったに違いないと思ったから。父に聞こうにも、父はもういない。残念なことをしたと思っている。あの盲のおばあさんの何とも上品な顔が私は忘れられない。

 

【総代】

 私が小学校の時代は、無欠席で成績優秀品行方正の者が修業証書を代表でもらいに出ることが習慣になっていた。今の時代ではPTAが黙っていないようなことが行われていた。私は身体は小さかったが、割に健康だったので、毎年その代表に選ばれていた。 
子どもとしてはどうってことはない。今年もかという程度のものだった。その終業式の日に母は必ずいつちに寄って私の通信簿と修業証書を見せに行くのがならわしだった。学年に一人しかいないのだから、誰も彼もというわけにはいかないのに、どうしていつちに見せに行くのだろうと、私はとてもいやだった。いつちにも子どもは何人もいるのに、私はいやで仕方が無かった。祖父が生きていれば孫にもなるのだけど、おじさん、おばさんにしてみれば、何でそんなものをわざわざ見せに来るのだろうと思うにきまっている。
いやでいやで仕方がなくても、小学生の私は母にそんなことは云えなかった。自分の母を愚かしい親だと軽蔑していた。軽蔑するというより悲しかった。わざわざいつちに寄って、それからうちに帰るのではおなかも空くし、何とおろかな親だろうと思っても一ことも云えなかった。あの時に何か言った方がよかったのか、それとも言わなかった方がよかったのか、今でも私にはさっぱり分からない。
世の中には難しいことが多すぎる。こんなことが何処のうちでもあるとは絶対思わないが、私のうちでは子供を悩ませることが他所より多すぎたのではないだろうか。
子供にそんなにしっかりセエと云われても、子供にしてもやれることとやれないことがある。私はもう二度と子どもには戻りたくない。

 

【一生一度の反抗】

それは暑い夏の夜だった。明日は試験がある。疲れているけどやらなくてはならない。私は教科書を持って二階に上がった。どれくらい経っていただろう。いきなり母の大きなどなり声に私は目を覚ました。私は眠っていたのだ。
「民子は勉強しよるかと思うちょったら、こんなところで寝むっちょるやないね」
眠むっているからといって、そんなに大きな声でどならなくてもいいだろう。心の中でそう思って、私は階段を駆け降りた。それからはだしで裏の木戸から飛び出して、そのまま堤防まで駆け上った。それからは何処へ行くか考えもせず、ただ堤防の上を走った。
「もうこんな家にいるのはいやだ」「死んでしまいたい」心の何処かでそう思った。うしろの方で 
「たみ子」 
「たみちゃん」
という母の大きな声が聞こえた。堤防の上は人影もなく暗かった。私は母に掴まった。それから母に手を引っ張られて、裏の木戸からうちに入った。井戸で足を洗って座敷に上がった。そこには父が一人黙って座っていた。
「たみ子そこに座れ」
と云われて、私は云われるままに座った。
「ふじ子もそこに座れ」
と云われて、妹は私の横に座った。母も少し離れて座った。構図は整った。何と云われるかと思って、私は落ち着かなかった。父はおもむろに、
「民子が勉強したいと思っている気持ちをもう少し分かってやればいいとに、一寸も分かってやっちょらんき、こんな事になったんやないか」
と母に云った。私は父の言葉がありがたくて涙がこぼれた。
それからずっと泣きどうしだった。でもこれでは母の立場はどうなるのだろう。私は不安を感じた。妹は冷静のようだった。いやな雰囲気のなかで父も母もしゃべった。内容はよく覚えていない。四人が四様重い気分の夜だった。
翌日は目を真っ赤に泣きはらして私は何時ものように学校に行った。友だちから何か云われたらどうしようと思いながらの登校だったが誰も何も云わなかった。変だと思っても同情して聞かなかったのだろう。寝とぼけが半分だったのでこんな行動ができたのだろう。それ以来、私はこんなはっきりした意志表示をしたことは一度もない。よくやったものだ。

 

【習字】

私は字を書くのが好きだった。絵が書けないことは公表したから皆さんよく分かっていることと思いますが、字は心が安まるので、好きだった。
女学校に入ってからはかなの上手な先生がおられて私はいわゆるしびれるような気持ちになったものだった。少女趣味というようなものだったのかもしれない。日下部という先生のかなの手本がもらいたくて、私は先生の習字が習いたくてたまらなかった。
先生は放課後、希望者を残して塾のような形式で教えておられた。そこでは先生の書いた手本をいただけるのだ。私はその手本がほしかった。友達も何人も習っていた。習っている人は習字の点もいい点をもらっていたと思う。そんなことはどうでもいいことだ。ただ私は先生から直に字が習いたかった。
ある日思い切って母にそのことを話した。母は習字の月謝など問題ではなかったと思う。私はそうふんでいた。ただそんなことをすると私の帰りが遅くなることを一番嫌ったことは子どもの私にも火を見るよりも明らかであった。私は考えた。当たって砕けろという言葉もあるではないか。話すだけ話してみようと思った。母は字は上手であったし、全く理解の無いこともないかもしれないと思った。私はおそるおそる話してみた。母はいやとは云えず一応承知してくれた。
私はうれしかった。それからはじめての習字の日に、私はうれしくて天にも昇りたいような気持ちで授業を受けて帰った。裏の木戸から「タダイマ!!」
と大きな声でうちへ入った。誰一人返事が無かった。いやな予感がしたがもう手遅れだった。お勝手から入って行くと母が忙しそうに夕食の仕度をしていた。何時もは私がすることを母はただ黙ってやっていた。それは無気味だった。
「おそかったね」
とでも云ってくれればまだ気持ちの持っていきようもあろうというもの、何一言言わずにセッセと仕事をしている母に、私は凄みさえ感じた。その日の食事は私の喉をどのように通って行っただろうか。私はそれ以来習字を習うことを諦めた。
こわいことは一番身近なところにあるものだと私は感じるようになった。何時の日かそうでなくなる日の来る事を願って。

 

【一升瓶】

小学校へ上がった頃から私はよくうちの手伝いをさせられた。町のはずれまで一升瓶を持って醤油を買いに行くのは何時も私の役目だった。やせて身体の小さい私には、それは大変なことだった。私は一度もいやな顔をしなかった。出来なかった。小さい子どもを育てながら、母は洋品店をしきっていたのだから、大変だったのだろう。
「民ちゃん醤油を買うて来なさい」
母にそう云われると、私は何をしていても母の云うことを聞かなければならなかった。町のはずれまで一升びんを持って醤油を買いに行く。私にはとてもいやな仕事だった。途中で落としはしないだろうか。ブッツケはしないだろうかと何時も心配だった。子供心に全神経を集中させて、うちまで持って帰ったものだった。行きは空びんだから何てことは無い。店に行くと何時もおじさんはニコニコして私を迎えてくれた。
おじさんが樽の下にびんをおいて、樽から醤油をなみなみとびんの中に入れると、何時でも醤油は口のとこまで来ると、アブクになってじょうごからこぼれ出した。びんをつたわってこぼれ出すアブクが、何故か私はいやだった。それからおじさんは醤油色のしみこんだふきんでびんを拭いて、
「気をつけて持って帰りなさい」とやさしく云ってくれたものだった。
途中で重たくなって、どうしても持てなくなると、私はソーッと地面にびんを下ろした。昔の田舎道のことだ。石ころはゴロゴロ、牛や馬のふんはそこいらに落ちているような道で、私は一升びんを下に下ろしては休んだ。一休みすると、又両手で持ち上げて歩いたものだった。この動作を何度か繰り返してやっとうちへ辿り着いて、
「買おて来たばい」
と母に云った。忙しそうにしている母は
「そこにおいちょきなさい」
と云うだけだった。
「重たかっちょろ」
と云ってもらっただろうか。記憶はない。

 

【べんとう】

「たみちゃん起きなさあい」 
「あれ」 
祖母の声だった。
「そうだ」 
「今晩泊るから、明日の朝は用意してあげるねえ」
と昨晩祖母が云ったことを思い出した。
起きて行くと茶の間には電気がついていて、部屋の真ん中には七輪に豆炭がアカアカと盛り上がっていた。暖まった部屋に私は何とありがたいことだろうと思った。 こんな朝ははじめてだった。それから祖母はおべんとうを持って来て私に見せた。
「何も無かったからいりこ(小さな煮干し)の玉子とじ、それから人参しか無かったので人参を煮たよ」 
と云ってにこにこしながらべんとうの中を見せてくれた。黄色い玉子とじと赤い人参、色どりもよく体裁よく詰めてあった弁当が私はうれしかった。
この人は何という知恵者だろう。さりげなく、あるもので心のこもったこんなべんとうを作ってやれるなんて‥‥  私は祖母にべんとうまで作ってもらえるとは思ってもいなかったので、ただうれしかった。私が女学校に行くようになって、初めて人から作ってもらったべんとうだった。私は毎朝かまどでごはんを炊いて、それを詰めて弁当を作って通学していた。
私は五人の子供の弁当作りをやってきたが、よくこの朝の一コマを思い出していた。あの限られたスペースに詰めるからべんとう作りは心が詰められるのだと思って来た。
遠足の時など、皆はおいしそうなべんとうを持って来るのに、私は何時もあり合わせのものを詰めて行く自分のべんとうがみじめで、汽車弁を買って持って行っていた。うちが店をやっていたので、母は夜が遅いから朝は起きてもらったことは無かった。それだけに、朝のべんとう作りは母親の特権だとさえも思って来た。

母の随筆3

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【選挙の日】

今日は選挙の日です。選挙公報を見ても心に迫ってくるようなものは全く湧いて来ません。テレビもサッカーに押しやられてしまったような感じでした。
十年くらい前、私は私なりに希望に燃えて代々木の市川房枝の婦選会館に通っていました。市川房枝という人はえらい人だったと思います。女性のために自分の身体を最前線に押し立てて戦ってくれた人でした。
今日選挙公報を見ながら自分にもあんな時があったのだったと一人でつくづく思ったことです。あの頃の市川房枝は丁度今の私くらいの年だったと思います。なりふり構わず一途に女の為に戦ってくれた人です。あの頃はまだ夫が元気な頃でした。もともと市川房枝を応援するような夫ではなかったのですけど、私が婦選会館に行くようになって人間が変わったように明るくなって来れたので夫まですっかり房枝ばあさんが好きになって選挙運動も手伝ってくれたのでした。思い出して見ると私が一番しあわせを感じた頃だったと思います。選挙のこの日に情熱の湧いて来ない自分が情けないような気持ちになって、つい昔のことを思い出してしまいました。
婦選会館に行って英語のABCから教えてもらいました。私は青春を取り戻したような気持ちになれて、帰りの代々木の駅のホームに立った時には何とも言えない程の喜びで、自分の前には広い大きな道が開けていて、私の吸える空気が沢山にあるように感じて胸の熱くなる思いでした。あの日の感激は忘れられません。またあの時のような熱い思いを感じられるように生きて行きたいものです。

 

【私の人生】

昨日は一日中冷たい雨が降っていましたが今日は朝から明るい日差しです。朝の散歩もできてほっとしています。アスフアルトの道を杖をついて歩くのもしんどいんですけど何とかこれまでになれたと思ってありがたいと思っています。いろんな体験をして私も生かしてもらっているのだとこの頃は考えます。晴れの日ばかりではない、雨の日も嵐の日もいろいろあって、それがそのまま私の人生なのだと思えるようになりました。過去は晴れて気持ちのよい日が続きました。続き過ぎていたのかなあ、とふとそんなことを考えたりします。こうして何か書いているとそれだけで気持ちが落ち着くのです。とてもありがたいと思います。私の安定剤だと思って下さい。
ここまで書いていたら今西岡さんが来て、今日で最後になるから外で食事でもしましょうということになって、西岡さんと一緒にちょっと出かけることになりました。西岡さんはとても心のやさしい方です。本当にお世話になりました。
またお手紙します。

 

【こんにちは】

昨日は一日中冷たい雨が降ったが今日は朝から雨も上がって散歩には丁度いい天気だった。少しひんやりするくらいだが、あまり重着をしないで歩いた。丁度いいあんばいだった。6時過ぎに家を出て少し歩き出したところで一人の通勤風の紳士に会った。何気なく通り過ぎようとした私に小さな声で「こんにちは」と言って下さった。
私はとても幸せな気持ちになれたがびっくりして、声にもならないくらいの小さな声で「こんにちは」と言ってチョコンと頭を下げた。
鴨志田にいた時はいつも歩いている時に会った人には朝は「おはようございます」午後は「こんにちは」と声をかけ合っていた。それも極く自然に、呼吸するように自然な行為だった。それが知らない土地に来てからは私も何となくぎこちなくなっていた。それなのに今朝の挨拶は極く自然にできてとてもしあわせに感じた。あの方のうちにも私と同じくらいのお年寄りが居られるのかしらと考えをめぐらしたのだった。
「おはようございます」「さようなら」とは何と美しい言葉だろうと鴨志田にいた頃は考えたものだった。今朝は鴨志田にいた頃のことを思い出して、うすら寒い梅雨空を吹き飛ばす程の幸せな気持ちになれたのでした。

 

【おはようございます】

今朝は少し寝坊をして散歩に出かけたのは6時半頃でした。雨は上がっていたし涼しい気持ちのいい朝でした。曲がり角のところで一人の中年の男性とパッタリ出合いました。
「おはようございます」私は少し大きな声ではっきり言いました。先方も
「おはようございます」とはっきり返してくれました。馴れない土地で全く会ったこともない人にでもそうして声を掛けたくなるような自分の気持ちを意識したことは初めてです。人がこいしいのだなあと、自分のことをそう感じました。今日一日が、いやこれからの毎日がこんな気持ちで生きて行けるような日でありますようにと願うような気持ちでした。
今までの私は自ら孤独になっていく傾向にあったような感じがして来ました。過去のいろんなことが織りまじってそうなって来たのだと思います。こんなことを自ら認めたことは今までには無かったことです。このように自分を行き場のないようなところにまで追いつめて考えてみて、はじめて私は自分の生き方を今までに無かった方向から見つめられるようになれたのだと思います。それほど私は我の強い人間だったのだと今はじめて気付いたことです。あまり意固地にならないでソフト(?)な人間になりたいです。むつかしくてあまり自信は無いのですけど。

 

【愛とは】

もう四十年も前のことになるかもしれない。私は時々思い出しては誰に話すでもなく一人で考えていた言葉がある。市川房枝の婦選会館に行っていた頃のことである。
ある時中央大学の佐竹先生のお話しを聞く機会があった。その日先生は
「愛とは何だと思いますか」と言われた。「愛」といえば男女の愛だと即座に私は思った。先生も
「愛といえば男性と女性の愛だと思うでしょう」と言われたが
「ではないのです。本当の愛というものは相手の可能性をできるだけ伸ばしてやろうと思う心です」と言われた。その言葉を聞いた時私は胸が熱くなるようなものを感じた。
「そうなのだ。だから私はつらくなるのだ、当然なのだ」と胸が痛くなるような思いだった。私の可能性のあるものはみんなつみ取ってしまわれて、だからこんなにつらいのだ。これは私がひがんでいるわけでも何でもない。私の育った環境の中では不合理なことばかりがまかり通っていたから息がつまりそうにつらくなったのだった。うちの中ではどんな不合理なことも何も言えなかった。私は業という意味がよく分からないが、私にはその業というものがあるのだろうか。私が何か自分の考えを言えば母がどんなに不安定な状態になるか、私はそれがいやだった。家の中でまた父と母の関係がどのようになるか想像することも出来なかった。母はどうして父の心の進まない結婚をあんなに無理して一人で進めなければいられなかったのか私はうちの中がガタガタになってしまいそうになっているのがこわかったので何にも言わなかった。
私は自分のやりたいこと、将来の希望など母から一度も聞かれたこともないし話したこともない。あんなに我慢していた自分が可哀相で書いていても涙が出るほどだ。外部に対しては他人には何も分からないように事を進めていくのが母はうまかった。
今日は佐竹先生の話しから大変な方向へ行ってしまった。こんなつらい思いをしなければならないのは私一人で沢山だと思ってうちの子供たちには将来の進路については出来るだけの手をつくした。
「愛とは」とてもとても深い愛情を持って見守ってやらなければならないことだと思う。私のような例はめったに無いと思うがどうしてあれ程までに娘の気持ちを無視して進めなければならなかったのだろうか。母にも言うにも言えない程のものがあったのではなかったのだろうかと今初めて母の側に立って考えられるようになった。私にも初めて救いのようなものを感じるチャンスが与えられてありがたく感じた事である。思いきって書いてよかった。初めて母のことを考えて涙の出るような思いをさせていただいてありがとうございました。私も少し変わることができたようです。

 

【友達】

どんよりした梅雨空でしたが先程からまた降り出しました。啓子はフルートを持って出かけました。明子が先程から来ていろいろとやってくれています。以前だったら書道の道具を出したでしょう。でも今日は明子が整理してくれたフアイルを出して書いたものを読み出しました。和子から来た手紙を読んでいるうちにまたペンを出しました。やはり私にはこれしかありません。
昨日は鴨志田にいた頃の一人暮らしの老人の為のお食事会がこちらの地区センターでもあるようになって、初めて呼んでいただきました。久しぶりに鴨志田にいた頃の友達に会えてとてもうれしかったです。
『原さん、元気そうねえ。明るくなったわねえ』と言われました。この年になって古い友達に会えてうれしいという思いは今まで感じたことのない程のものがありました。

 

【ご親切】

娘は旅行の準備のために昼食もそこそこにして先程銀行に出かけた。私は一人で昼食を食べていた。ピンポンと鳴った。誰だろうと思ったら○○ですけどとよく聞き取れない声だったがどうも隣の人らしい方からの声だろうと思った。
「雨が降って来ましたよ。奥様はお留守ですか?」と言われた。
「はい、娘は出かけておりますが、どうもありがとうございました」と私は慌てて答えた。というのは何年か前だったと思うが娘がふとんを干したまま外出していたその留守に雨が降りだして、近所の方二、三人で梯子をかけてぬれたふとんを下に降ろすような大変な騒動があったという話を聞いていたので、あれマタかと思って私は一度しか上がったことのない二階の干し場におっかなびっくり上がった。この頃は足腰が弱って階段などは用心して上がらないとこわいのである。やっと上がって見たが、雨はパラパラで降っているとも言えないくらいの雨で私が干し場に行った時にはもうすっかり止んでいた。これがご近所のつき合いというのであろうが、私は大変な思いをした。取り込んだ洗濯物は何とか下で干しておかねばならないし、年をとるとこんな
何でもないことをとっても面倒に感じるものである。自分でも年をとったなと思った。
以前に娘からふとんを濡らしたことがあるという話を聞いていなければそんなにいやな感じを持たなかったかもしれないと思うけど… 
人の家に来ていると大したことでもないことに気を使うものである。

 

【頭の整理】

この頃ふと思い出した言葉があるんですけど。それはもう十年くらいかそれよりも前になるかもしれませんが、確か亀井勝一郎と言ったと思う評論家の書いた本の中にあった言葉ですが、「いい青春時代を送っていないといい老年時代を送ることはできない」という言葉だったと思います。「では私は一体どうすればいいの」と思ったことでした。 
その通りです。正にそうだと思います。こんな言葉を思い出すと、少しは自分のことを客観的に見ることができるような気がするのです。いろんなことを書きましたけど、これからは自分を考えるにも距離をおいて考えていけるようになりたいと思っています。こんなことを和子に書いたら肩のこりが楽になったような気分になりました。今までで一番楽に書けていると思います。
いろんなことを書きましたけど、私の頭を整理するためにやっている作業と思って下さい。書いていて今日が一番楽です。楽しい気分になれました。不思議です。結局思っていることを皆吐き出してしまえばいいんですねえ。でもそれはとてもむつかしいことなのです。

 

【性格】

私が何を書いていいか分からずに、ああでもない、こうでもないと言いながら話している横で明子が
「お母さんがそれだけ親のいうなりになってないで、言いたいことを言えば良かったのよ」とズバリ言った。
「そんなのないよ。けんかしてでもはっきり言えばよかったのに」と。正にその通りだと思う。これだけ誰とでも何でも話せる私がどうして母にだけは何も言えなかったのだろう。明子が不思議に思うのも無理もないことだ。でもどんなに明子に言われても、あの時の私は母に何も言いたくなかった。言えなかった。今でも言いたくない。
相性が悪いというような言葉では言い表せないような何かがあった。母は私が母を越えて行くのがいやだったのだろう。総てにおいて。
ここまで書いたら母が哀れになってきた。娘の育って行くのを見ていて喜びよりねたましさの方が多かったのだろう。やはり救いはあるものだ。私は初めて母を哀れに思った。あんなに娘と張り合わなければならなかった母の成長の過程は知る由もないが、涙の出るような思いだ。母のことで悩んで来た私の今までの人生はむごいものだったが、今は何だか重たい荷物を降ろしたような気持ちになれて来た。
明子に言われたことが契機になって、やっと私も正常な頭でいられる人間になれたような気がします。心配かけました。ありがとう。

 

【母の言い分、娘の言い分】

私は久しぶりに上京して来た孫娘についにこの頃の自分の心境を話してしまった。話してもよく分かってはもらえるだろうとは思えないのだけど、京都の娘から私のことは少しは聞いているかもしれないと思って話してみる気になった。孫にまで言いたくなるあわれなばあさんだと我ながら思う。幸せな娘夫婦のもとで青春真っ盛りの人生を送っている孫にまで話してみたくなる自分のことをあわれと思って居るのだけど…
娘を通じて孫も少しは感じくらいは分かっているかもしれないと思いながら、何とかしなければ生きて行くのに自信が持てなくなっているこの頃の私である。
私の想像できるところの母の言い分を書こうと思ったことは初めてである。母はきっとこう言いたかったのだろう。
「うちだって楽していたわけでもないのに、あなたの学資を毎月毎月送ってあげていたのに、あなたは給料が入るようになってもきちんきちんと返済しなくなって…」というようなことで却っていいあんばいで、民子と一緒にさせればというようなことになって急いで結婚させたのではないだろうか。返済されないことをいい幸いにして私をうちから出すことに決心したのだと思う。
その頃の父と母はよく言い争いをしていたことは私にもよく分かっていた。父は決してそんな気持ちではなかったことは私にはよく分かっていた。あの頃は父と母とでよくけんかをしていたことが私にとってはつらいことだった。年は十以上も離れている男女はそう簡単にうまくやっていけないことは父にはよく分かっていたのだと思う。父もつらかっただろう。結局母に押しまくられたという感じになっていたことはまだ子供だった私にも手に取るようによく分かっていた。今の時代だったらあり得ないことが私の家ではあり得たのだ。
書き出すといやな気分になるがこれから先何年生きていられるか分からないがもう少し明るい普通のおばあさんとして生きて行くために私はここで自分を変えられるものなら変えたいと思ってこうして書いているのです。残りの人生は平凡でありたい。 
明子に話し、ゆきちゃんに話したことがこういうことを書くきっかけになったようなものですが、これからはしっかり足を地につけて歩いて行けるような年よりになりたくて書きました。
ゆきちゃんはいろいろよくやってくれています。料理も上手で今朝のオムレツはとてもおいしかったです。和子のしあわせを心から喜んでいます。啓子は元気に立って行きました。今ごろは楽しんでいることでしょう。

 

【初めてのヨーロッパ旅行】

このヨーロッパ旅行は私がもっと若い頃のことです。
中央大学の佐竹先生の発案で市川房枝の婦選会館で企画されたものでした。
私はうちに帰って早速話しましたら、思いがけなくも夫が
「それはいい。行け、行け、後のことは心配しなで…何でもおれがやる」
と熱心に言ってくれたので、私もありがたいことと思ってそうさせてもらうことにしました。
是非行けと言ってくれた夫の言葉はほんとうにうれしかったです。ガンコな人だなあと思ったこともありましたが…
夫の言葉で私も嬉しくなってその気になり参加させてもらいました。
留守中のことも気がかりにもなりましたが、夫の「まかしとけ」という一言に私は感謝の気持ちでまかせました。
出発の日は羽田まで送りに来てくれた夫、友人に冷やかされましたけど夫は平気な顔をしていました。うれしかったです。飛行機に乗り込んだらもう早速カメラを出して撮っている人もいました。楽しい旅でした。
誰の顔も日常のことはすっかり忘れて楽しい旅をしている幸せな顔でした。
あっちこっちで「うちでは何を食べているかしら?ラーメンでも食べているかしら?」
というような声も聞こえて来ました。うちの事も考えながら皆楽しい旅をしているといった感じでした。
飛行機は大分飛んでローマの飛行場に着きました。
数日後、真っ暗い夜でした。前方からオペラの歌声がビンビン聞こえて来ました。
あれはカラカラ浴場の方ではないかしら。星空の晩でした。
早く行かなければ始まっている。皆一生懸命に音のしている方に走りました。
地理がよく分らないので、音楽の聞こえて来る方向に走るしかありませんでした。笑われそうですけど…
着いて会場に入るとステージでは人馬一体になってもうオペラが始まっていました。
感激しました。館内一杯の人の歓声がビンビン聞こえて私達は皆我れ先にと自分の席を探しました。
皆掛けられるほど席はありました。これが本場のオペラかと胸の震えるような感激でした。
人間の声の素晴らしさに私たちはただ陶酔したような感じでした。
馬もステージに何頭も出て来てクライマックスになりました。時間よ止まれと言いたいような感激でした。夢中でオペラに聞き入りました。
この感激を忘れないように、大事に持って日本に帰りたい、そして皆に話して聞かせたいと誰もが思っていたと思います。企画をして下さった佐竹先生や婦選会館の方々にありがとうとお礼を言いたい気持ちで一杯です。
今まで生きて来てこれだけの感激を経験したことはありませんでした。
この旅行を喜んで行けと言って出してくれた夫のことがジーンと胸に来ました。
その夫は今はもう居ません。人は亡くなってはじめてその人のことが分るものなのだなあと思ったことでした。
子供たちに音楽をやらせていたことを良かったなあと満足している今日この頃です。
現在私は娘の家に来ていますが先日娘が外で見つけたと言って大きなアルバム用の額を買って来てくれました。
一寸しゃれていて、大きさもちょうど良いし、その額に十数枚の写真が貼られました。
この頃はいいセンスのものが出ているものだと感心しました。私が良いものを買って来てくれたと喜ぶので娘もとても喜んで以前よりうちの中が明るくなったような感じです。
それを見ているとあのオペラを見ていた時のことが昨日いや今日のことのように思い出されます。
飛行場まで送りに来てくれた夫がとてもいい顔に写っているのですから、幸せが二倍にも三倍にもなった感じです。

 

ハンドベル

一週間前にハンドベルの発表会が「もえぎの」のプラザであった。
私は音楽は大好きだけど、ハンドベルというものをやったことも聞いた事もなかった。
音楽を頑張る程わたしには力量もないし、ファイトもない。
不安な気持ちが頭をちょっとばかりよぎった。
でもやらない人はいないらしい。
やるしかないと私も決心した。
そのうちに練習に入った。
手探りで何とか周りの人がやっているようにまねをしなが らやっているうちに、だんだん音が出るようになって来た。
その音もだんだん澄んできたように思えるようになった。
私は楽しくなって来た。
私は生来単純にできていると思う。
分かったと思ったら後は骨は折れない。
面白くなってきた。
うれしかった。
単純なようで、こんなハーモニーの美しい音が出るように考えて下さった人を尊敬し たいような気持ちになった。
83才にもなって皆と音楽を作り出していく喜びを体験できて私は幸せだった。
今まで以上に音楽が好きになれた。

 

【娘との対話】

この頃の楽しみは夕食の時によく娘と40年位も前のことを話し出すと食べる事も忘れたように話が弾むことです。
うちにはその頃子供は五人くらいいたし、食べさせて学校に行かせる事で頭もふところも精一杯フル回転していた頃でした。
私の家は高台の上にありましたから正 月になると家の中から見える所を着飾った親子が初もうでに行くのだろう、いそいそと楽しそうに歩いて行くのを食事をしながらうらやましい気持ちで見ていたものでし た。
うちではお宮参りに行くというような心のゆとりもなく、お雑煮を食べていたのでした。
「今年こそは喧嘩はすまい。夫と仲良くやって行こう」と決心してお雑煮をいただいていたのでしたが、それも一週間も経ったか経たないうちにまた喧嘩をしてしま うのでした。
原因はいつもお金が出るばかりで残らないということでした。分かっていても子供が五人も六人もいれば倹約したくらいでは間に合わないくらい出て行くのでした。子供は皆元気で育ってくれていたのですが、何よりも稼いでも稼いでもお金が残らないことが夫にとっては不満なのでした。
夫と喧嘩をしてもどの子も皆進学させてやりたいし、何とか行かせる事ができま した。行かせたほうが得だと私もがんこに頑張りました。今になって思うと誰もかれ も一生懸命に生きていたのでした。喧嘩をしたというのは良くはないのですが、喧嘩してまで良くやったと思えるようになりました。
こんな気持ちになれたのは初めてで すが、ありがたいことだったと思えるようになりました。
人間って不思議なものだと思いました。こうして書いて行くうちに私も自分のことを少し距離を置いて考えることができるようになっていることをありがたく思いま した。うちの親子もマンザラではなかったのだと思ったら何だか嬉しくなりました。だんだんエスカレートして来てえらいもんだ、良くやったと初めて思いました。
「自分をほめていればセワないよ」
何処かで誰かに言われているような気持ちになりましたが、それもこんなつたない文章でも書きたいだけ書いたからその結果として与えられたもののような気がします。
夫が何処かで
「いい気なもんだ。やってくれ!!」と言っているような気分になって来ました。
ご苦労さんでしたと初めてこんな思い が浮かびました。
私に書け書けと言ってくれた娘に感謝する気持ちに初めてなれました。

母の随筆2

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鬱病

私は自慢にもならない病を二回患いました。現在はその二回目です。はっきり云ってこんないやな病気っていうのは無いでしょう。死んでしまいたいと何回思ったことでしょう。今でもその心境の中にあります。余程神は私には考える機会を多く与えないとわかりにくい生きものだ、と思し召したのだろうと思います。
前回の発病の時は夫も子ども達も皆健在でした。七人家族の中核になっているつもりで朝から晩まで忙しく動き回っていました。そのときの発病は九州の父の死後、親兄弟のしがらみの中から生じたものでした。病気の引き金になった世間のしがらみは目に見えないがとても強く、引いても押してもどうにもならんという代物です。これがいわゆる「日本的な美徳」とでもいうのでしょうか。私はあまりこの雰囲気には合わないようです。日本的美徳を持ち合わせていない私は一人でしがらみの網に引っかかり、もがいて病気になったのでした。
その後子ども達は結婚してゆき、夫には死なれ一人になりました。今回は正反対の状況のもとに起きたものです。原因は借家の家賃の滞納による、世間によくある問題でした。こんないやな問題は無いだろうと思うような問題でも、一人で解決しまた。よくやったと今でも思っています。何とか事件は決着したのですから、前に比べれば、今回の病気は始めからあまり深刻にならないでやっていけそうだと思っていました。 先程明子は、
「よく書くねえ」
と云って帰り際に手紙を持って出ました。
これは酒も煙草もやらなかった私の無駄遣いと思って下さい。誰かと何か話したくなるから、つい書くことになるのだろうと思います。本を読むとか、別の方法を考えないと、郵政省に奉仕しているようなものだと考えながら書いています。
自分でも困ったものだと思っています。結局誰か話し相手をもとめているようなものだと思っているのですが…
何か書いていると、落ち着くというか、それだけのものです。読むことに力が入ればいいと思っているんですが、頭が疲れて、まだ、どうにもならないのです。
なおるでしょうか。なおってほしいです。

 

【いなりずし】

それは小学校の六年の放課後の一ときだった。
田舎の小学校のことだから、中学や女学校に進学する人はクラスに五、六人位しかいなかった。先生は五、六人の生徒を集めて受験勉強をしてくれた。
ある家庭からは、女中さんがおやつのせんべいや菓子などを届けた。私のうちは手伝ってくれる人はいないし、手も回らなかった。だから私はそのおやつをいただくのが子ども心に心苦しかった。でも子どもでもこのままではまずいと感じて、うちへ帰って母に事情を話したのだった。母は考えがあるという風だったので、私はほっとした。
それから数日経って母の配慮でうちの方からいなりずしが届いた。おいしいいなりずしだった。でもそれを届けてくれたのは、同じクラスの私の従兄弟だった。彼は進学しないのだった。進学しない従兄弟が届けてくれたことに、私はとてもすまなく感じた。皆はおいしいおいしいと食べているのに、私はそのいなりずしが喉を通らないように感じた。そのいなりずしはそのうちで拵えて売っていたのだった。おいしいはずだった。そのおいしいいなりずしが、喉を通らなかった自分を、今でもいじらしいと思う。誰が届けてくれるのかまでは、私は考えていなかったのだ。
うちへ帰ったら、母はいなりずしはおいしかっちょろうと云った。私は何と返事したか覚えていない。それきりおやつを届けてもらいたいとは云わなかった。幼い日のほろにがい思い出だ。

 

【にこごり】

私は小学校の一、二年の頃から自分でべんとうを詰めて学校に行った。朝、ごはんを食べて、さあこれからべんとう詰めだ、今日は何を入れよう。鍋の中には昨晩のおかずの魚が入っていた。
「これはいいものがあった。それに私の好きなにこごりが沢山残っているではなか」
私はうれしくてたまらなかった。早速詰め出した。暖かいごはんの横に魚とにこごりを入るだけ入れた。
「出来た。出来た。今日のべんとうはおいしいぞう」
私はうれしかった。それからハンカチに包んだべんとうを持って、私はよろこび勇んで家を出た。
「行って来まあす」
しばらく行くと、べんとうを包んだハンカチにへんな色がついて来た。
「何だろう」
「これは何だろう」
私は慌てた。にこごりが溶け出して流れ出したのだと分かるには、しばらく時間がかかった。にこごりは溶け出すものだとはつゆ知らず、欲張って沢山入れたのだった。学校への道のりは子供の足では二、三十分はかかっただろう。
汁のしみたあわれなべんとうを持って私は学校に辿り着いた。べんとうの時間に、私は汁のしみ込んだきたないハンカチを開けなければならなかった。開けて見ると、にこごりは影も形もなく、魚が一切れちょこんと汁のしみこんだごはんと一緒に入っているだけだった。
私は何度かその時の光景を思い出したものだった。

 

【子どものためにならん】

クタクタにくたびれて、やっとうちに辿り着いた私には、毎日毎日次から次へとうちの手伝いが待っていた。
おやつが用意されているわけではなく、お腹を満たす暇もなく夕食の仕度をしなければならなかった。母は私の帰るのを待って夕食の準備を始めていたのだろうか。
ある日、金田の祖母がたまりかねて、
「帰るといきなりそんなに用事を言いつけたら可愛そうやないね」
と云ったら母はカンカンに怒った。そのすごさはこわかった。
「子どもの為にならん!!」
と大きな声で吐き捨てるように云った。祖母は
「むげなさうに」
と云ってくれたけど、却って火に油をさすようなものだった。
汽車通学でクタクタになって帰って来た子どもに、手伝いをさせるのは、子どもの為にさせているのかと私は初めて知った。大人の世界はこわいなあと思った。今日は祖母に云われたのでカーッとなったのだろうとは思ったけど、それにしても、どうして母はこうなのだろうと、私はふに落ちなかった。大人の世界ってこわいなあと思ったその日のことは八十になってもわすれられない。

 

林芙美子の放浪記】

私が女学校の頃、母の云ったことをふと思い出した。母は林芙美子の放浪記くらいのものなら書けると自信たっぷりに云ったことがあった。林芙美子は九州で近かったし、普通の人より親しみを感じていたのかもしれないが、相当な自信だなあと私はびっくりしたことを覚えている。
母は間違って子どもを六人も産んでしまったのだろうかとさえ思ったことがあった。でも何たる自信だろう。そう聞かされて母に対する尊敬の気持ちが深くなったかと云えば、そうではない方が多いようだ。何のためにそんなことを年頃にもなろうという娘に話したのか、母の真意が分からない。
私は産まれ変わっても、子どもを五人産んで、アクセク働いて一生を終えただろう。どんなに苦労があったとしても、この苦労があったればこそ今のよろこびをいただけているのではないかと思う。楽しいことだけが単独では決して来ない。
「悲しいところに聖地あり」という言葉が私はとても好きだ。山内先生が亡くなった時、この言葉が枕頭に書いてあった。私はクリスチャンでもないのに、この言葉だけはよく思い出す。
母は私のような娘を長女として産んで、もの足りなくて淋しかったのだろう。母娘で心から話したことは一度もない。勿論けんかをしたこともない。母は気の毒だったと今では思う。何時も奥歯にものの挟まったような気分ではなかっただろうか。こんな親不幸娘を産んだために。

 

【笑ったことのない母】

 ある時夫が云った。
赤池のお母さんは笑ったことがないねえ」
何の時にそんな話題になったのが忘れてしまったが、考えて見ると、母の笑い声を聞いたことが無い。考えられないけど‥‥娘が云うには、
「おじいちゃんは何時もきたないほど笑っていたけどねえ・・・」
全くそうだった。父は何時もヒーヒー云って一番大きな声で笑っていたと思う。娘のいわく
「お母さんもはしたなく笑ってたよ。子どもを五人も産んで、大きな口を開けてきたなく笑ってたよ・・・」
きたなく笑ってたよと云われて、又大きな口を開けて笑った。
考えて見れば私は子どもの時から、うちの中で母の笑い声を一度も聞いたことは無いような気がする。信じられないかもしれないが、人の仕ぐさを笑うことはあっても心から楽しく笑ったことは無かったような気がする。
私など人間が上品に出来ていないので、きたない程大きな口を開けて笑っていただろうと充分に想像はつく。きたない程笑っていたいものだ。

 

【夢】

古便箋が出てきました。使えるのでしょうか。
この頃は、昼寝していると、美しい絵や、すばらしい文章が書いてあるような錯覚を持つことがあるのです。しみのついた何時も使っているうちわなのに、面白いと思います。何処を見ても何も書いていないし、よごれただけのうちわなのに…
人間ってどうなっているのでしょう。面白いと思います。夢から覚めるのが惜しいようす。
一人で楽しめた時間だけは得をしたような気がします。
あんなに現実的ないやなことばかり書いていた私がですよ。神様は考えて下さっているなあとありがたく思います。和子からのお土産の八ツ橋がおいしくて、いただきながら書いています。 
本当は泣きたいことばかり、でもみかけはしっかりしています。もうむつかしい理屈を並べるのは止めました。皆こうして別れていくのですよねえ。あの人は晩年あまりにも、いい楽しみを残してくれすぎました。この前亡くなった時はこんなにつらくは無かったような気がしましたのに。

 

【うつらうつら】

昨夜は蚊が出て目が覚めて二時頃風呂に入ったりして今朝は六時過ぎに起きて調子が狂ってしまいました。それでも歩いて来ました。
この頃は書きたくても書きたいものが湧いてこないので困ります。一種の空白状態なのでしょうか。五十年間一緒にいた人がいなくなったのだから、これで当然なのでしょう。無駄な時間ではないぞという気持ちもするのですけど…
人間ってこんなに難しいものかと初めてぶつかったような気がしています。世の中には私一人ではなくて何万というこの歳の人がいるのでしょうねえ。そう思って慰めてみたりしています。
誰かがいる時はいいのですが、一人になると全く始末が悪いのです。鴨志田で一人暮らしを始めた頃は、自分でもやれるではないかと感じたりしましたが、二度とはなれません。神仏は一度は助けて下さいますが、二度目は自分の力量だとこの頃つくずく感じます。
私のどこをゆさぶってもあの時の感激は出て来ません。神仏は二度はチャンスは与えて下さらないのですねえ。今度は正に自分の力次第だと思います。そういうものが私にまだ残っているとは思えないのです。
この頃はじっと見ていると山内先生の写真と啓子の持って来てくれたあじさいの花が一番すばらしいようです。雑然とおいているサイドボードの上のものが一番自然で美しく見えます。
外では新緑が美しく、小鳥の声が最高の音楽を奏でているのに…
人間って、最高の体験をしているのだと思ったりしているのに…
あの人が最初の旅行をした時に買って来たメイドインフランスの人形をテーブルの前に置いたら涙が出ました。あんなに仲の悪い夫婦だと思っていたのに。一人でうんと泣いたらおさまったようです。

 

【子沢山】

今はすばらしいファイルがあるんですね。啓子が作ってくれました。いものがあるんですね。ありがとうございました。
この頃はもの忘れはするし、どうしたらいいだろうかと思っていましたが、こんなフアイルを見ていると、また何か書いてみたくなりました。私って根から図々しく出来ているんです。
和子に手紙を書いていると、他の世界で遊んでいるような気持ちになれるのです。いい文章も書けませんが、ただただ書いていると、ほかの世界にいるような気分になれるんです。不思議です。
この頃は目もよく見えないし、耳だけは聞こえますので、外で鳴いている小鳥の声がとても楽しませてくれます。耳の聞こえるのはありがたいと思います。

 

【ぼけ】

娘から書け書けと云われて悪い気はしてないのですが、でも一番現実的なものは、そのボケです。ボケ現象なんて云わなくても皆さんよく分かっておられるボケです。
どうしてこんなにボケるのでしょうか。私はウソを書かなければ死ぬまで書けるなんて、えらそうなことも云ったこともありますが、ボケはあまり面白くやれないのです。面白いボケがあったら高座に上がって、高いお金をいただけるんですから、こちとは大分違います。チマチマやろうというものには、どだい無理です。
ウソを書かなければ書けると思った時もありましたが、あの頃はまだましでした。ウソを書かないだけではオマンマはいただけません。
私もこの頃は少し分かって来ました。入り口と出口を間違えて、すまして何とかやっているというのはおあいきょうです。高座でウソを演じるほど度胸は無いし、どうしましょうか。私もオマンマの食い上げになりそうです。
元来バアサンのボケは迫力にかけますから、私が逆立ちしても無理だと思います。着想は面白いと思います。おつむのいい方は考えて下さいよ。当たりますよ。本骨頂はウソの無いボケですねえ。これがむつかしいのだと思います。よろしくお願いします。このへんでおつぎとさせていただきます。
この頃はよくボケるんですよ。それが本モノだから困るんですよ。笑っていられる時はいいんですけど、笑っていられなくなると、これは困りものです。
この頃はモノ忘れがひどいので、娘が赤いマジックペンを買って来てくれました。
「和子は何時来るんだっけ?」「6日よ」「え?」「何時だったっけ」
そういうことしていると、マジックペンになってしまいました。これで印を付けておけば大丈夫だろうというわけです。娘を気の毒に思いました。いやな顔一つせずに合わせてくれているのですから。因果なものです。

 

シャンソン

昨日英彦からCDが届きました。あまりのすばらしさに泣き泣き聞きました。京都でも今ごろは聞いてくれているのだろうと思って聞きました。
今日は休日なので明子は休みです。昨晩啓子は来ていたのですが、今日のことは具体的に聞いていなかったので、丁度親の留守を待っている子のようにポカンとしています。京都は今日は戦場のように忙しいんでしょうと、丁度私一人がハイジンの様にポカンとしているのだろうという感じです。
英彦のもずっと一人で聞いているとあまりのうつくしさに却ってさびしくなります。こんな時に何かいいことを考えようと無い頭を絞っているんですが、何も浮かんで来ません。ムードだけでは駄目ですね。ガチャガチャしたところの方が私には合っているのかもしれないと思ったりしています。人間ひとり生きるということは大変なことだということだけはよく分かりました。
今使っているペンは以前のとは違うでしょう。これは憲司さんが使っていたのだそうです。前のが駄目になったら啓子が持って来てくれました。ではさようなら、お元気で。
CDを聞きながら書いたので手紙がトンデます。

 

【写経】

先程は電話をありがとう。今日は明子が来ています。丁度和子からの電話の後でした。暑いのに、腰が痛いといいながら、わざわざ来てくれるんですから涙がこぼれます。和子の電話で涙をこぼしていた時でした。私は涙でしぼんでしまうんではないかしら。
和子たちにあまり云われると、私は小さくなる人間のような気がします。ペンを持つ手も久しぶりではあるのですが思うように以前のように大きくは動けません。人間がもともと小さいのだなと何時も反省しているのですが、自分ではどうにもならないのです。
般若心経という言葉も直ぐに出てこないような私ですので、全くとんでもないことなのです。それなのにやっているんですから(子どもにすすめられて)バチが当たらないかしらとさえ思っているんです。
やり通せるかどうか、こうして書いていても以前に書いていた時のようによく見えないし、手も動かないのです。人間はこうなっていくのが自然なのだと思うのが一番気持ちが落ちつける方法だと知りました。
和子達の期待に添えればいいですけど、実のところ私はそんなことは考えていません。今のこの時を、少しでも心が安らかに生きて行ければありがたいことと思っています。だからあまり期待しないで下さい。ガッカリした時が悲しいですから…
新江さんから法事のしらせをいただきましたが私は行きませんので御仏前を入れておきますので、一緒に出して下さい。よろしくお伝え下さい。
何日ぶりかにペンを持っても手は以前のように動いてくれません。今日は朝からずっと、休みをとりながらですけど書いていたので、そのせいもあるかもしれません。
娘たちが電話で連絡をとり合ってくれていることは、とてもありがといことと思っています。
明子が今、
「字が小さいねえ」
というので、
「今日は朝からずっと書いたので疲れて大きな字が書けなくなった」
と話したところです。

 

【ある朝】

目覚めたらいつものように明るい朝だった。今日はどうしようか。歩いて帰ってから湯を使いたいと思って歩くことにした。初めて杖を使って歩いてみよう。身支度をして家を出た。階段を降りたところで高須さんに会った。いつもと変わらない朝の風景だった。私は歩き始めた。杖を使うのに少し抵抗はあった。だんだん慣れて来るだろうと思って階段を降りた。歩き出したがちょっと違和感を感じた。快適とはいえない。でも、もう歩き始めている。私は前に前に進んだ。ちょっと変な感じはするがそのうちに慣れて来るのだろうと思った。
いつもの坂になった道を歩み進んだ。その時である。どうしてそうなったのか分からないが、私の足が急いだのか、私は草むらに倒れこんだ。しまったと思ったが後のまつり。
起きようとしたが手がいうことを聞かない。そうしているうちに通りかかった男性が
「救急車を呼びましょうか?」
と言われた。私は自分はそんな状態になっているのかと分かって愕然とした。
「いいです。ここに電話して下さい」
と言ってポケットから手帳を出して、啓子の住所と電話番号を書いているところを示した。そのうちに車が来て私は運ばれた。何処に連れて行かれるのかも何も分からないままに連れて行かれたところは後で分かったのだが、たちばな台病院だったのだ。
こんな時にも自分の性格が出たのだなあと恥ずかしいような気持ちになったのはしばらく時間が経ってからであった。意識はいつもと変わってなかったつもりだったが、私は後で考えて自分を恥ずかしく思った。冷静に娘のところに連絡を取ってくれと頼んだつもりだったが、第三者にはとんでもないことを言うバアさんに見えたことだろうと恥ずかしく思った。
レントゲンを撮ってもらってギブスをされてそれからはどのようにされたか覚えていない。入院にはならなかったが首に輪っかのようなものをはめられてベットに寝かされたと思う。その後はその日はどのようにされたか覚えていない。いつ家へ連れて帰ってもらったかも覚えていない。情けないといったらこの上なしだ。
これからどうなるのだろう。どうしたらいいのか考えても何も分からない。谷に突き落とされたような気持ちになった。啓子を頼りにするほかには私には何の術もないのだ。私はあまりに自由に生きてきたので、大バチが当たったのかなあと思うより考えようがなかった。その後数日のことは何がどうなったか覚えていない。この時から私の人生は変わった。

 

【死ぬ時は死ぬるがよろしい】

たちばな台に来て一週間が経ちました。
はじめはどうなるかと思いましたが、首にわっかをはめられてギブスをはめられて何とか手紙を書いてみました。読みにくいでしょうけれど判読してください。
昨日はお見舞いありがとう。心配かけてすいません。
良寛の「死ぬ時は死ぬるがよろしい。災難に会う時は災難に会うがよろしい」という言葉が身にしみた。昔の人はえらいなあと思った。私はそこまでいけませんが、その意気で残りの人生を生きたいと思っています。
人生にはいろいろなことがあって当然なんだという気持ちになって来ました。私にとっては今までにはない体験でしたが、神仏にちょっと足を止めて考えてみなさい、と言われた感じです。これらは今迄より一日一日を味わって生きて行かなければならないと思います。今度のことは貴重な体験にしていこうと思います。
私は左手のギブスがまだ取れなくて字も思うように書けません。そのうちに手の軽くなるのを楽しみにしています。でも夜はよく眠れますから天国にいるようです。
身体動きも少しは楽になりましたが、どんどんよくなるというわけにはいきません。うちの中を一人で歩いて見たりしています。啓子のいない時に…。
啓子があんまり誰もいない時に歩き回らないでくれというので。こっそり。
それだけ心配してくれているのです。
身体が少し軽くなるとこの頃は人間の運命というようなことをよく考えます。考え出すと際限なく考えてしまいます。
この頃は手も大分痛みが取れて、トイレに一人で行けるようになりました。幼稚園児のようですが、それが実際ですから…
また楽しいこともあろうかと何時も思っています。
今晩は啓子と二人の食事で静かでしたので書く気になりました。
それでは今日はこのへんで。

 

【その後の私】

私は啓子の家で世話になるより生きる術のないことを悟らざるを得なかった。自分は我の強い人間であることは分かっていたつもりだったが、今はその瀬戸際に立たされているような心境だ。
どう考えてもその時の私にとっては鴨志田の階段は不安だった。啓子は車だと十分で行って来れると言うが、私には九州に行くくらいの感じがするのだった。福岡県育ちの私だったからだろうか。そうこうしながらも、何も話しをしないで、毎日朝晩世話になっているのも心苦しい。
「一度鴨志田に帰って来れば気持ちも定まるのではないだろうか」
と言ったら、啓子は
「車で連れて行ってあげよう」とこころよく言ってくれた。
うれしかった。それから数日後帰ることになった。怪我をしてちょうど二か月後くらいだった。
「十分とかからないよ」といくら言われても信じられない私だったが、本当に十分もかからないうちに着いた。何も変わっていない団地の風景だった。おそるおそる三階までの階段を上がった。気をつけて上がったが何てこともなかった。・・・
これが自分があんなに愛した鴨志田の家かと思うと、いとおしくて涙が出そうになるのをグーッとこらえた。自分が可哀そう。家も可哀そう。しばらく呆然としていた。当然のことながら家の中には誰もいない。道具は以前の場所に置かれたままで、少しほこりを被っているくらいだ。何ともいえない気分でしばらく呆然としていた。
啓子はあっちこっち開けていりそうな物を取り出していたが、私は何もする気になれなかった。何もかもが可哀そうで、触れられなかった。誰にも私の気持ちは分からないだろうと思っていた。家を持っていながら落ち着く所のない自分を哀れというか、何ともいえないほどさびしかった。この気持ちは誰にも分からないと思う。でもそれを越えて私は強くなりたい。

 

【リハビリ】

この頃私は降っても照ってもリハビリに通っている。娘の手をしっかりと持って。転んで以来足腰まで弱って、一人で歩くのにも不安を感じるようになったので娘を頼りにして歩いている。全く人間って弱いものだと思う。毎日
「お願いします」と言って歩き始める。ありがたいと思いながら。
今日はいつもの先生と違っていた。
「娘さんですか。いいですねえ」と言われてニコーッとされたのがうれしかった。手も少しずつではあるが動くようになって来た。先生が言われるには、
「足の骨折でなくてよかったですよ。足だったら即入院ですよ。入院したら大変ですよ。それに左手だったから…、右手でなくてよかったですね」
リハビリをしていただきながらこんな会話をしたのは初めてだ。私はうれしかった。ありがたい一日だった。

 

【村上先生】

昨夜は久しぶりに村上先生のところに行った。以前鴨志田にいた時は何時もお世話になっていたホームドクターである。娘の都合で夜になったが、病院の中は以前と少しも変わっていなかった。
「ご無沙汰しておりました」
「お変りありませんか」で始まって、最初に血圧を計っていただいた。平常である。先ずはホットした。
「原さんは血色がいいですね」と先生に言われてうれしかった。この頃はよく人に言われることだが、化粧も何もしていない顔を血色がいいと言われるとうれしい。診察をしていただいたけど、何も異状はなかった。
先生が言われるには
「前の原さんは何時もキンキンしていたけど…」と言われて笑いが出た。何時でも何か緊張感を持っていて、心からのんびりした気分になれなかった私のことを先生は見抜いておられたのだろう。
裁判が始まってからは緊張のしどうしで、何時も血圧は高かった。先生には事情はよく分かっておられなかったことだし、不思議に思われても仕方がない。人間の体はこうも微妙なものかと思った。
帰りの車の中で啓子が言うには、私が席を立った後、先生が言われるには
「娘さんと一緒というのはいいんですねえ」と。啓子は
「しょっちゅう喧嘩ばかりしています」と言うと、先生は
「それがいいんです」と言って笑われたそうだ。その雰囲気が分かるようだ。昨日はいい日だった。

 

【百年祭】

「来年、いつちの爺さんの百年祭をやるから、おじさん元気にしといておくれ」と若い者が私の父に言った。父のいわく、
「このおれにおまえたちはまだ長生きしといておくれと言うのか」とおどけながら言った。自分一人では思うように何一つできないのに、長生きしていておくれと若い者に言われると笑って返す父を私は偉いと思った。こんなユーモアを言える人が他にいるだろうかと思って私は父を尊敬したのだった。
年を取っても、苦しくても、人を笑わせられるゆとりを持っていたらボケるのも少しは救われるのではないだろうか。昔のことを思い出しながら書いてみた。

 

【この頃の私】

毎日陰鬱な日々を送っていた私だったが、やっとこの頃少し目覚めることができた。考えれば考えるほど自分の駄目さが悲しくて泣きたいような日々だった。人間って不思議なもので障害が大きければ大きいほど跳ね返す力も大きくなれるようだ。
今日私は嬉しい体験をした。冷たい雨の中を藤本さん(お手伝いさん)の手をしっかり持って歩いた。言葉の一言一言がやさしくて私はうれしくてありがたかった。そうして話ながら帰るうち、私の頭の中を「私でよかった!!」という思いが駆けめぐった。今まで一度も考えたことも、思いついたこともないものだ。今度の怪我が私でよかったと思った途端、私の頭の中はすっかり入れ替わったようだった。何という幸いなことだったのかと私は思ったのだった。啓子か英彦か、またその他のどの子であっても大変なことになっていたのに。本当に私でよかったと思って胸が熱くなるようなよろこびだった。仏さまに助けられたのだと思ったら涙が出た。
私でよかった。他の誰でも大変なことになっていたのだ。私だったからこれくらいですんでいるのだと思ったら、ありがたいことだったという気持ちに変わってしまった。人間の力ではこんなに180度も気持ちは変えられるものではない。仏さまってほんとうに居られるのだと、子どものようにうれしい気持ちで帰って来た。

 

【目のうろこが落ちたんだね】

小雨の降る寒い天気だったが、リハビリの部屋はいつもと変わりなく盛況だった。しばらく待たされたが、この頃よくやって下さる名前も知らない男の先生が私の前に椅子を持ってきて掛けられた。
「どうですか」とやさしく声を掛けて下さった。今日は当たったと思って私はうれしかった。その先生はやさしいので、いつもとてもありがたい気持ちになれるのだ。
しばらくもんでおられたが、先生が
「原さん、目のうろこが落ちましたね」と言われたので、私はびっくりした。どうして先生に私の心の中が分かっていただけたのかと不思議なものさへ感じた。私は
「自分でよかった。子どもや孫でなくて私でよかったと思っています」というと、先生は
「そうだよ。若い人だったら大変だよ」とニコニコしながらおっしゃった。
人の心の中をこんなにも鮮やかに見抜かれる先生って素晴しい方だと思って、雨の中をうれしい気持ちで帰って来たことだった。
だんだん暮れも迫って来て、正月はどうしようかなど考えて、頭の落ち着かない私にも、こんなうれしいことがありました。

 

【ある病院の風景】

私は毎日(日曜日を除いて)リハビリのために近くの病院に行っている。そこで度々一人の老紳士(?)に出会う。身なりは小ざっぱりしていて、帽子の被り方などさまになっている。リハビリが終わって部屋の外の廊下の椅子で一休みしていると、よく話しかけて来る。
あまり話が長くなると、こちらは席を立ちたくなるのだが、先方は全く意に会せず、いやになってしまうこともある。話の内容は病気のことから、たわいないものまでいろいろだけど、何故か私は亡くなった夫のことを思い出して、中途で席を立ちたいような気持ちになるのだ。
その老紳士は何時も頭には無造作に帽子を被っていて、その帽子がサマになっているのだ。コートもよく似合っている。私は最初に見掛けた時、速、亡くなった夫を思い出したのだった。年格好も夫が生きていればあのくらいだろうと思うと、何となくせつなくなってくる。
男が後に残るより女か残った方がいいと世間ではよくいう。なるほどと思う。

 

【小さな会話】

リハビリでは治療していただきながら先生と面白い話をすることがよくある。
今日は先生が想像しておられたより私の手がよく動いたので、先生もよろこんで下さって
「ほう、原さんうちでもやっているんですか」と聞かれた。私も自己流でやっていたので、
「はい、やりました」と答えた。先生いわく
「原さん、第三の人生ですね。第三の男という映画がありましたよね」
「第一の人生は戦時中の人生、第二の人生としてはいろんなことがあったでしょう」
「これからは第三の人生ですよ」とおっしゃった。
私は清々しい気持ちになれてうれしかった。
ほんとうに「第三の人生」と思えるように生きて行きたい。うちへ帰ったら早速書こうと思って冷たい風の中を明子と一緒に帰って来た。

 

【命には別状はなかったのだから…】

今日は12月17日。普通にしていれば年賀状書き、片付けなどいろいろと忙しくやっている頃なのに、私は今日もヘルパーさんと一緒にリハビリに行って来ました。早かったせいか割に空いていました。家に帰ってからは啓子の用意してくれていた昼食をヘルパーさんに出してもらって一人でいただきました。ほとんど毎日のことなので大分馴れて来たとはいえ、何とも言えない気持ちです。
今日も先生に手をもんでいただきながら一時の人間らしい心情になれるのがありがたいです。
「今まで病気らしい病気もしたことがないので、毎日考えさせられることばかりです」と正直な気持ちを話すと
「そうですか」とちょっと驚いた様子でした。
「怪我は一瞬、養生は一生ですねえ」と言われて
「まあ、命には別状はなかったのだから良かったと思わなければ」と言われました。
全くその通りだと思いました。

 

【包丁を持って】

昨日は三、四ヶ月ぶりに包丁を持って台所に立った。怪我をして手を骨折してから初めて料理らしきものを作って何とも言えないような爽快な気持ちになった。料理は野菜を短冊切りにしてドレッシングで和えた味はイタリア風の料理だった。そんな簡単なものが私にとってはとても新鮮に感じられてうれしかった。
数日前、私は思いきって啓子に言ったことがある。
「こうしてじっとして料理のできるのを待っている気持ちなんて、私はもうやりきれない。何かやればできると思うからやってみたい」と唐突に言った。以前から心では思っていても、口に出せなかったのを思いきって一遍に言った。
実際に骨折してから三か月くらいは何も出来なかった。他人であれば何とか言えることも、親娘であると却って言えないこともある。手が少しずつ動くようになってからは、お茶碗洗いくらいはやっていた。それも落として割りはしないかと恐る恐るだった。
娘が忙しそうに料理を作っているのを出来るまで、ただじっと見ているなんてことを毎日毎日やっていてはたまったものではない。何だかんだと気ばかり使っていても何も前には進まない。やれてもやれなくても、口に出して自分で言わなければ駄目だと思って思いきって言ってみた。娘もパーッと気持ちが分かったような風で、私のすることをいろいろ指図してやれるようにしてくれた。母、娘は言い易いようでいいにくいものだ。
こうして世話になっているのも心苦しいが、だからといって鴨志田に帰っての一人暮らしも承知してもらえそうにないし、どうしたらいいのか分からずに悩んでいた。でも昨日のことは、このどうしたらいいのか分からずにいた悩みに何らかの指図を示してくれたような気がした。

 

【デイサービス】

今年もいよいよ押しつまって来ました。
この頃は書く方はさっぱりで、ついついこういうことになりました。書きたい気持ちは何時も持っているのですが、私は欲張りなのでしょうか。
去る12月26日にはじめてのデイ、サービスというのがありました。知らないじいさん、ばあさんが十人車に乗せられて会場に連れて行ってもらいました。
すごく立派な建物でびっくりしました。食事は手作りの手の込んだものだし、ありがたいと思いました。でもみんな知らないもの同志で、今少しというところでしたがこれも仕方がありません。最後にゲームがありまして、私もちょっと笑われるようなことをしゃべりましたが、皆を笑わせるということは難しいことだけど気分のいいことだなあと思ったことでした。追々馴れていくことだ、と自分に自分で期待をかけている図々しさが私にはあることを知らされた会でした。まずまずの出足でした。
正月には鴨志田に帰って新しい空気を吸って、何か仕入れて帰って来たいと思っているのですが、どうなりますことやら。

 

【感謝】

皆さんお元気ですか。この前はコピーをありがとうございました。私もお陰様でリハビリも見通しがたったような状態です。啓子とぬれたふきんのしぼりあいこをして競っています。まだ啓子には負けますが、よくここまで来れたとありがたい気持ちで一杯です。
昨日は雪の中デイケアサービスに行って来ました。同じようなじいさん、ばあさんが寄るのも、得るものが沢山にあることがだんだん分かってきました。昨日は入浴サービスがありました。半分くらいの人は入らなかったけど、私は何でも体験だと思って入りました。大きな浴槽で、一応パイプで仕切はありますが混浴です。じいさん、ばあさん一緒のお湯につかっていい気分になりました。それから頭からシャワーでジャージャーお湯をかけて、先ず頭から洗ってくれるのです。最後には足の指一本一本、裏から横から洗ってくれたのには恐れいりました。立派な青年が短パンをはいて、はまり込んでやってくれるのですから、言葉にならないほどありがたいと思いました。入浴したのは全員の半分くらいでした。湯から上がったら直ぐに、
「入浴しなかった人は習字をやりました。原さんもよろしかったら書いてみて下さい」
と言われました。書いたものを見せられると、正月とか、初日の出とか、いろいろ書いてありました。私にもどうぞと言われて、書かなければ格好がつかないので書こうと思いました。さて、何と書こうかと考えたが、今風呂から上がって来たばかりの私には感謝という言葉が頭に浮かびました。これしかない。これを書こうと思って直ぐに書きました。若い人が
『練習してからでもいいんですよ』と言われたけど、
『練習しても同じよ』と言って直ぐに書きました。風呂に入れてもらって感謝の気持ちが一杯だったので、ちょうど良かったと思って気持ち良く筆が運びました。楽しい一時でした。
雪もだんだん降ってきたので早めに引き上げて帰って来ましたが楽しい一日でした。だんだんお顔も覚えて来て、気持ちも楽になりました。
啓子は京都に手紙を書け書けと言って、さっきフルートの練習だと言って出かけました。

 

【うちのベット】

私は昨年の8月31日に転んで左手首を骨折して以来、ずっとたちばな台の娘のところで世話になっている。
鴨志田の家は空けたままにしてあるので、いつでも帰ろうと思えば帰れるのだが、それが今までできなかった。
昨日初めて鴨志田に帰って一晩泊まってきた。勿論一人で。まづスーパーで夕食の材料を買ってきた。いい鯛の頭があったのでまづはそれを買った。次に里いも、人参、小松菜などを買って帰った。
うちへ帰って鯛の頭に挑戦したが、思っていた以上に大変だった。それでも何とかうまく煮ることができた。骨折した方の手はまだ完全ではないので随分気を使った。ヤレヤレとほっとした。野菜はあまり骨折らずに美味しく煮えた。
こうして何とかできあがった料理を一人で食べるのも、何とも言えない気分だった。それから風呂に入った。頭の中まですっかり入れ変わったような気分だった。
後は寝るだけだ。十年以上も使っていたベットなのだけど、私は言葉にならないほど、そのベットに入るのがうれしかった。この頃はずっとこんな満たされた気持ちになったことはない。私は極楽浄土に行かせてもらったような気持ちになれた。何とありがたいことだったのだろう。心が安穏でいられるということは。こんなにありがたい気持ちになれることなのだろうか。勿体ないことと思った。
一人考えながら眠りに入って行った。ありがたい夜だった。

 

【再生】

人間年を取ると頭が固くなるということは子どもの頃から聞いていました。人ごとのように聞いていましたが、私は、今、まさにそうなっていることに気が付いて愕然としているというのが、他でもないこの私です。今までの私の人生の中でこれほど強烈に感じたのは今が初めてです。何をボヤボヤしていたのか!!わかり切ったことではないかと、どこからか誰かの怒った声が聞こえて来るような気がします。もうみんな後の祭りです。怒って下さい。うんと怒って下さい。怒られたら私の頭の中から小さな小さな芽が出てくるかもしれないと、ふとそんな気持ちになって今ペンを持っています。
子育てを終えて、これからは今までにやりたくてもやれなかったことをしようと、私は希望に燃えていました。夫はもう亡くなっていたので私は一人暮らしをしてラジオの英語講座を聞くのを何よりも楽しみにしていました。毎朝5時半頃起き出して私にとっては難しい英語講座に、正に四つに組んでやりました。簡単にできるものではないとは十二分に分かっていましたが、難しければ難しい程意欲が湧いたのでした。
英語が終わったら直ぐに歩き出しました。英語で頭を使った後にズックを履くと履いているうちに頭がスカーッとして全く変わったようにいい気分になれるのです。それがとてもうれしかったです。不思議な気分になれたのでした。あの頃はどうなっていたのでしょう。自分でそうしよう、そうなりたいと思うよりも先に自然とそうなってしまっていたようでした。そんなわけで、何もかも、することなすこと総てが楽しくて仕方がなかったのでした。のに、今ではそれだけのフアイトはありません。燃え尽き症候群とでもいうのでしょうか。
書いていてふと自分のことをこのように客観的に感じたのは初めてですが…。こういうことを感じたということだけでも私にとっては初めてのことなのでとてもうれしいことです。書くということの喜びを感じたということがとても新鮮です。こんな軽い気持ちになれたことはこのところ暫くありませんでした。これでいこう。何か書こう。欲張らずに自分を正直に見つめて行こう。何とありがたいことか。私の心の中にこの頃感じたことの無かった何かがうごめいて来ているような気がします。肩肘張らずに自分を正直に見つめて行こう。私は何か救いがあるような気分になってきました。救わずには居れないという何か大きな力を今は感じて、何とありがたいことかと思いながらペンを走らせております。
ここまで書いたら胸が熱くなって涙がこぼれそうになりました。この頃はずっとこういう思いになれたことはありません。誰に話をするではなし、誰もいるでもないのに、こんなに胸の熱くなるような思いになれるとは何とありがたいことでしょう。私は守られていたんだと思うと胸が熱くなりました。
この頃は自分でもこんなに情けなく思ったことのないほど落ち込んでいました。その私に書け書けと言ってくれたのは和子です。自分に自信が持てなくなっていた私にも力を与えて下さったのは娘でしょうか、神でしょうか。私は両方だと思います。私にもまだ力が残っていたのだと、胸が震える程の喜びです。ありがとう和子よ。もう一度生きて行く力をいただいたようです。罪深い私ですからつらくなるとまいってしまいますが、また己に気付くととても楽になれるのです。本当にありがとうございました。心配かけました。どうも皆さんお元気で。ケーキもそうめんもとても美味しいです。ありがとう。さようなら。

 

【心から】 

自分の思っていることを心から話せる人を一人でも持っている人はとてもしあわせな人だと思う。友人はいても友人には深いところは話せないことが多い。
「誰でもそうよ、そんなことは欲張りよ」と言われそうである。私は弱い人間なのだろうか。誰かに分かってもらいたいと、ふと思うことが多いのである。
誰にも悩みはあるだろうけど、私は小学校の頃から現在婆さんになるまで、つらいことは誰にも話さないで自分の心の中にしまい込んで来た。「ナラヌ堪忍、スルガ堪忍」「艱難汝ヲ玉ニス」など格言になっている言葉は大体繰り返し頭の中で考えて、なるほど昔の人はえらいことを言ったものだ。その通りだと自分でもよく納得したものだった。でも、年を取って弱って来ると回りを見ても、誰も彼もそう辛抱ばかりして生きているわけでもないし、何で私だけがとつい思ってしまうことがある。
私は子供の頃から心の中にあることを回りの誰にもほんとうに話したことが無いまま大人になってしまった。
「そんなこと私もよ。誰でもそうよ」という声が聞こえて来そうだ。でも私は誰にも話せないで一人で我慢ばかりして生きて来たのは自分でも可哀相過ぎると思った。子どもの頃から学校であったいろいろなこと、とてもうれしいことでも親に言うことなしに生きて来た。言えなかった。子ども心にも親は聞くことをさほどよろこばないだろうということが分かっていたので…
 家の中で心からうれしくて笑ったことがあっただろうか。幼時期の環境というものは一生その人に影響を与えると思う。年取ってこんなくすぶった婆さんになったのもそういうことも影響しているのではないだろうか。