母の随筆3

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【選挙の日】

今日は選挙の日です。選挙公報を見ても心に迫ってくるようなものは全く湧いて来ません。テレビもサッカーに押しやられてしまったような感じでした。
十年くらい前、私は私なりに希望に燃えて代々木の市川房枝の婦選会館に通っていました。市川房枝という人はえらい人だったと思います。女性のために自分の身体を最前線に押し立てて戦ってくれた人でした。
今日選挙公報を見ながら自分にもあんな時があったのだったと一人でつくづく思ったことです。あの頃の市川房枝は丁度今の私くらいの年だったと思います。なりふり構わず一途に女の為に戦ってくれた人です。あの頃はまだ夫が元気な頃でした。もともと市川房枝を応援するような夫ではなかったのですけど、私が婦選会館に行くようになって人間が変わったように明るくなって来れたので夫まですっかり房枝ばあさんが好きになって選挙運動も手伝ってくれたのでした。思い出して見ると私が一番しあわせを感じた頃だったと思います。選挙のこの日に情熱の湧いて来ない自分が情けないような気持ちになって、つい昔のことを思い出してしまいました。
婦選会館に行って英語のABCから教えてもらいました。私は青春を取り戻したような気持ちになれて、帰りの代々木の駅のホームに立った時には何とも言えない程の喜びで、自分の前には広い大きな道が開けていて、私の吸える空気が沢山にあるように感じて胸の熱くなる思いでした。あの日の感激は忘れられません。またあの時のような熱い思いを感じられるように生きて行きたいものです。

 

【私の人生】

昨日は一日中冷たい雨が降っていましたが今日は朝から明るい日差しです。朝の散歩もできてほっとしています。アスフアルトの道を杖をついて歩くのもしんどいんですけど何とかこれまでになれたと思ってありがたいと思っています。いろんな体験をして私も生かしてもらっているのだとこの頃は考えます。晴れの日ばかりではない、雨の日も嵐の日もいろいろあって、それがそのまま私の人生なのだと思えるようになりました。過去は晴れて気持ちのよい日が続きました。続き過ぎていたのかなあ、とふとそんなことを考えたりします。こうして何か書いているとそれだけで気持ちが落ち着くのです。とてもありがたいと思います。私の安定剤だと思って下さい。
ここまで書いていたら今西岡さんが来て、今日で最後になるから外で食事でもしましょうということになって、西岡さんと一緒にちょっと出かけることになりました。西岡さんはとても心のやさしい方です。本当にお世話になりました。
またお手紙します。

 

【こんにちは】

昨日は一日中冷たい雨が降ったが今日は朝から雨も上がって散歩には丁度いい天気だった。少しひんやりするくらいだが、あまり重着をしないで歩いた。丁度いいあんばいだった。6時過ぎに家を出て少し歩き出したところで一人の通勤風の紳士に会った。何気なく通り過ぎようとした私に小さな声で「こんにちは」と言って下さった。
私はとても幸せな気持ちになれたがびっくりして、声にもならないくらいの小さな声で「こんにちは」と言ってチョコンと頭を下げた。
鴨志田にいた時はいつも歩いている時に会った人には朝は「おはようございます」午後は「こんにちは」と声をかけ合っていた。それも極く自然に、呼吸するように自然な行為だった。それが知らない土地に来てからは私も何となくぎこちなくなっていた。それなのに今朝の挨拶は極く自然にできてとてもしあわせに感じた。あの方のうちにも私と同じくらいのお年寄りが居られるのかしらと考えをめぐらしたのだった。
「おはようございます」「さようなら」とは何と美しい言葉だろうと鴨志田にいた頃は考えたものだった。今朝は鴨志田にいた頃のことを思い出して、うすら寒い梅雨空を吹き飛ばす程の幸せな気持ちになれたのでした。

 

【おはようございます】

今朝は少し寝坊をして散歩に出かけたのは6時半頃でした。雨は上がっていたし涼しい気持ちのいい朝でした。曲がり角のところで一人の中年の男性とパッタリ出合いました。
「おはようございます」私は少し大きな声ではっきり言いました。先方も
「おはようございます」とはっきり返してくれました。馴れない土地で全く会ったこともない人にでもそうして声を掛けたくなるような自分の気持ちを意識したことは初めてです。人がこいしいのだなあと、自分のことをそう感じました。今日一日が、いやこれからの毎日がこんな気持ちで生きて行けるような日でありますようにと願うような気持ちでした。
今までの私は自ら孤独になっていく傾向にあったような感じがして来ました。過去のいろんなことが織りまじってそうなって来たのだと思います。こんなことを自ら認めたことは今までには無かったことです。このように自分を行き場のないようなところにまで追いつめて考えてみて、はじめて私は自分の生き方を今までに無かった方向から見つめられるようになれたのだと思います。それほど私は我の強い人間だったのだと今はじめて気付いたことです。あまり意固地にならないでソフト(?)な人間になりたいです。むつかしくてあまり自信は無いのですけど。

 

【愛とは】

もう四十年も前のことになるかもしれない。私は時々思い出しては誰に話すでもなく一人で考えていた言葉がある。市川房枝の婦選会館に行っていた頃のことである。
ある時中央大学の佐竹先生のお話しを聞く機会があった。その日先生は
「愛とは何だと思いますか」と言われた。「愛」といえば男女の愛だと即座に私は思った。先生も
「愛といえば男性と女性の愛だと思うでしょう」と言われたが
「ではないのです。本当の愛というものは相手の可能性をできるだけ伸ばしてやろうと思う心です」と言われた。その言葉を聞いた時私は胸が熱くなるようなものを感じた。
「そうなのだ。だから私はつらくなるのだ、当然なのだ」と胸が痛くなるような思いだった。私の可能性のあるものはみんなつみ取ってしまわれて、だからこんなにつらいのだ。これは私がひがんでいるわけでも何でもない。私の育った環境の中では不合理なことばかりがまかり通っていたから息がつまりそうにつらくなったのだった。うちの中ではどんな不合理なことも何も言えなかった。私は業という意味がよく分からないが、私にはその業というものがあるのだろうか。私が何か自分の考えを言えば母がどんなに不安定な状態になるか、私はそれがいやだった。家の中でまた父と母の関係がどのようになるか想像することも出来なかった。母はどうして父の心の進まない結婚をあんなに無理して一人で進めなければいられなかったのか私はうちの中がガタガタになってしまいそうになっているのがこわかったので何にも言わなかった。
私は自分のやりたいこと、将来の希望など母から一度も聞かれたこともないし話したこともない。あんなに我慢していた自分が可哀相で書いていても涙が出るほどだ。外部に対しては他人には何も分からないように事を進めていくのが母はうまかった。
今日は佐竹先生の話しから大変な方向へ行ってしまった。こんなつらい思いをしなければならないのは私一人で沢山だと思ってうちの子供たちには将来の進路については出来るだけの手をつくした。
「愛とは」とてもとても深い愛情を持って見守ってやらなければならないことだと思う。私のような例はめったに無いと思うがどうしてあれ程までに娘の気持ちを無視して進めなければならなかったのだろうか。母にも言うにも言えない程のものがあったのではなかったのだろうかと今初めて母の側に立って考えられるようになった。私にも初めて救いのようなものを感じるチャンスが与えられてありがたく感じた事である。思いきって書いてよかった。初めて母のことを考えて涙の出るような思いをさせていただいてありがとうございました。私も少し変わることができたようです。

 

【友達】

どんよりした梅雨空でしたが先程からまた降り出しました。啓子はフルートを持って出かけました。明子が先程から来ていろいろとやってくれています。以前だったら書道の道具を出したでしょう。でも今日は明子が整理してくれたフアイルを出して書いたものを読み出しました。和子から来た手紙を読んでいるうちにまたペンを出しました。やはり私にはこれしかありません。
昨日は鴨志田にいた頃の一人暮らしの老人の為のお食事会がこちらの地区センターでもあるようになって、初めて呼んでいただきました。久しぶりに鴨志田にいた頃の友達に会えてとてもうれしかったです。
『原さん、元気そうねえ。明るくなったわねえ』と言われました。この年になって古い友達に会えてうれしいという思いは今まで感じたことのない程のものがありました。

 

【ご親切】

娘は旅行の準備のために昼食もそこそこにして先程銀行に出かけた。私は一人で昼食を食べていた。ピンポンと鳴った。誰だろうと思ったら○○ですけどとよく聞き取れない声だったがどうも隣の人らしい方からの声だろうと思った。
「雨が降って来ましたよ。奥様はお留守ですか?」と言われた。
「はい、娘は出かけておりますが、どうもありがとうございました」と私は慌てて答えた。というのは何年か前だったと思うが娘がふとんを干したまま外出していたその留守に雨が降りだして、近所の方二、三人で梯子をかけてぬれたふとんを下に降ろすような大変な騒動があったという話を聞いていたので、あれマタかと思って私は一度しか上がったことのない二階の干し場におっかなびっくり上がった。この頃は足腰が弱って階段などは用心して上がらないとこわいのである。やっと上がって見たが、雨はパラパラで降っているとも言えないくらいの雨で私が干し場に行った時にはもうすっかり止んでいた。これがご近所のつき合いというのであろうが、私は大変な思いをした。取り込んだ洗濯物は何とか下で干しておかねばならないし、年をとるとこんな
何でもないことをとっても面倒に感じるものである。自分でも年をとったなと思った。
以前に娘からふとんを濡らしたことがあるという話を聞いていなければそんなにいやな感じを持たなかったかもしれないと思うけど… 
人の家に来ていると大したことでもないことに気を使うものである。

 

【頭の整理】

この頃ふと思い出した言葉があるんですけど。それはもう十年くらいかそれよりも前になるかもしれませんが、確か亀井勝一郎と言ったと思う評論家の書いた本の中にあった言葉ですが、「いい青春時代を送っていないといい老年時代を送ることはできない」という言葉だったと思います。「では私は一体どうすればいいの」と思ったことでした。 
その通りです。正にそうだと思います。こんな言葉を思い出すと、少しは自分のことを客観的に見ることができるような気がするのです。いろんなことを書きましたけど、これからは自分を考えるにも距離をおいて考えていけるようになりたいと思っています。こんなことを和子に書いたら肩のこりが楽になったような気分になりました。今までで一番楽に書けていると思います。
いろんなことを書きましたけど、私の頭を整理するためにやっている作業と思って下さい。書いていて今日が一番楽です。楽しい気分になれました。不思議です。結局思っていることを皆吐き出してしまえばいいんですねえ。でもそれはとてもむつかしいことなのです。

 

【性格】

私が何を書いていいか分からずに、ああでもない、こうでもないと言いながら話している横で明子が
「お母さんがそれだけ親のいうなりになってないで、言いたいことを言えば良かったのよ」とズバリ言った。
「そんなのないよ。けんかしてでもはっきり言えばよかったのに」と。正にその通りだと思う。これだけ誰とでも何でも話せる私がどうして母にだけは何も言えなかったのだろう。明子が不思議に思うのも無理もないことだ。でもどんなに明子に言われても、あの時の私は母に何も言いたくなかった。言えなかった。今でも言いたくない。
相性が悪いというような言葉では言い表せないような何かがあった。母は私が母を越えて行くのがいやだったのだろう。総てにおいて。
ここまで書いたら母が哀れになってきた。娘の育って行くのを見ていて喜びよりねたましさの方が多かったのだろう。やはり救いはあるものだ。私は初めて母を哀れに思った。あんなに娘と張り合わなければならなかった母の成長の過程は知る由もないが、涙の出るような思いだ。母のことで悩んで来た私の今までの人生はむごいものだったが、今は何だか重たい荷物を降ろしたような気持ちになれて来た。
明子に言われたことが契機になって、やっと私も正常な頭でいられる人間になれたような気がします。心配かけました。ありがとう。

 

【母の言い分、娘の言い分】

私は久しぶりに上京して来た孫娘についにこの頃の自分の心境を話してしまった。話してもよく分かってはもらえるだろうとは思えないのだけど、京都の娘から私のことは少しは聞いているかもしれないと思って話してみる気になった。孫にまで言いたくなるあわれなばあさんだと我ながら思う。幸せな娘夫婦のもとで青春真っ盛りの人生を送っている孫にまで話してみたくなる自分のことをあわれと思って居るのだけど…
娘を通じて孫も少しは感じくらいは分かっているかもしれないと思いながら、何とかしなければ生きて行くのに自信が持てなくなっているこの頃の私である。
私の想像できるところの母の言い分を書こうと思ったことは初めてである。母はきっとこう言いたかったのだろう。
「うちだって楽していたわけでもないのに、あなたの学資を毎月毎月送ってあげていたのに、あなたは給料が入るようになってもきちんきちんと返済しなくなって…」というようなことで却っていいあんばいで、民子と一緒にさせればというようなことになって急いで結婚させたのではないだろうか。返済されないことをいい幸いにして私をうちから出すことに決心したのだと思う。
その頃の父と母はよく言い争いをしていたことは私にもよく分かっていた。父は決してそんな気持ちではなかったことは私にはよく分かっていた。あの頃は父と母とでよくけんかをしていたことが私にとってはつらいことだった。年は十以上も離れている男女はそう簡単にうまくやっていけないことは父にはよく分かっていたのだと思う。父もつらかっただろう。結局母に押しまくられたという感じになっていたことはまだ子供だった私にも手に取るようによく分かっていた。今の時代だったらあり得ないことが私の家ではあり得たのだ。
書き出すといやな気分になるがこれから先何年生きていられるか分からないがもう少し明るい普通のおばあさんとして生きて行くために私はここで自分を変えられるものなら変えたいと思ってこうして書いているのです。残りの人生は平凡でありたい。 
明子に話し、ゆきちゃんに話したことがこういうことを書くきっかけになったようなものですが、これからはしっかり足を地につけて歩いて行けるような年よりになりたくて書きました。
ゆきちゃんはいろいろよくやってくれています。料理も上手で今朝のオムレツはとてもおいしかったです。和子のしあわせを心から喜んでいます。啓子は元気に立って行きました。今ごろは楽しんでいることでしょう。

 

【初めてのヨーロッパ旅行】

このヨーロッパ旅行は私がもっと若い頃のことです。
中央大学の佐竹先生の発案で市川房枝の婦選会館で企画されたものでした。
私はうちに帰って早速話しましたら、思いがけなくも夫が
「それはいい。行け、行け、後のことは心配しなで…何でもおれがやる」
と熱心に言ってくれたので、私もありがたいことと思ってそうさせてもらうことにしました。
是非行けと言ってくれた夫の言葉はほんとうにうれしかったです。ガンコな人だなあと思ったこともありましたが…
夫の言葉で私も嬉しくなってその気になり参加させてもらいました。
留守中のことも気がかりにもなりましたが、夫の「まかしとけ」という一言に私は感謝の気持ちでまかせました。
出発の日は羽田まで送りに来てくれた夫、友人に冷やかされましたけど夫は平気な顔をしていました。うれしかったです。飛行機に乗り込んだらもう早速カメラを出して撮っている人もいました。楽しい旅でした。
誰の顔も日常のことはすっかり忘れて楽しい旅をしている幸せな顔でした。
あっちこっちで「うちでは何を食べているかしら?ラーメンでも食べているかしら?」
というような声も聞こえて来ました。うちの事も考えながら皆楽しい旅をしているといった感じでした。
飛行機は大分飛んでローマの飛行場に着きました。
数日後、真っ暗い夜でした。前方からオペラの歌声がビンビン聞こえて来ました。
あれはカラカラ浴場の方ではないかしら。星空の晩でした。
早く行かなければ始まっている。皆一生懸命に音のしている方に走りました。
地理がよく分らないので、音楽の聞こえて来る方向に走るしかありませんでした。笑われそうですけど…
着いて会場に入るとステージでは人馬一体になってもうオペラが始まっていました。
感激しました。館内一杯の人の歓声がビンビン聞こえて私達は皆我れ先にと自分の席を探しました。
皆掛けられるほど席はありました。これが本場のオペラかと胸の震えるような感激でした。
人間の声の素晴らしさに私たちはただ陶酔したような感じでした。
馬もステージに何頭も出て来てクライマックスになりました。時間よ止まれと言いたいような感激でした。夢中でオペラに聞き入りました。
この感激を忘れないように、大事に持って日本に帰りたい、そして皆に話して聞かせたいと誰もが思っていたと思います。企画をして下さった佐竹先生や婦選会館の方々にありがとうとお礼を言いたい気持ちで一杯です。
今まで生きて来てこれだけの感激を経験したことはありませんでした。
この旅行を喜んで行けと言って出してくれた夫のことがジーンと胸に来ました。
その夫は今はもう居ません。人は亡くなってはじめてその人のことが分るものなのだなあと思ったことでした。
子供たちに音楽をやらせていたことを良かったなあと満足している今日この頃です。
現在私は娘の家に来ていますが先日娘が外で見つけたと言って大きなアルバム用の額を買って来てくれました。
一寸しゃれていて、大きさもちょうど良いし、その額に十数枚の写真が貼られました。
この頃はいいセンスのものが出ているものだと感心しました。私が良いものを買って来てくれたと喜ぶので娘もとても喜んで以前よりうちの中が明るくなったような感じです。
それを見ているとあのオペラを見ていた時のことが昨日いや今日のことのように思い出されます。
飛行場まで送りに来てくれた夫がとてもいい顔に写っているのですから、幸せが二倍にも三倍にもなった感じです。

 

ハンドベル

一週間前にハンドベルの発表会が「もえぎの」のプラザであった。
私は音楽は大好きだけど、ハンドベルというものをやったことも聞いた事もなかった。
音楽を頑張る程わたしには力量もないし、ファイトもない。
不安な気持ちが頭をちょっとばかりよぎった。
でもやらない人はいないらしい。
やるしかないと私も決心した。
そのうちに練習に入った。
手探りで何とか周りの人がやっているようにまねをしなが らやっているうちに、だんだん音が出るようになって来た。
その音もだんだん澄んできたように思えるようになった。
私は楽しくなって来た。
私は生来単純にできていると思う。
分かったと思ったら後は骨は折れない。
面白くなってきた。
うれしかった。
単純なようで、こんなハーモニーの美しい音が出るように考えて下さった人を尊敬し たいような気持ちになった。
83才にもなって皆と音楽を作り出していく喜びを体験できて私は幸せだった。
今まで以上に音楽が好きになれた。

 

【娘との対話】

この頃の楽しみは夕食の時によく娘と40年位も前のことを話し出すと食べる事も忘れたように話が弾むことです。
うちにはその頃子供は五人くらいいたし、食べさせて学校に行かせる事で頭もふところも精一杯フル回転していた頃でした。
私の家は高台の上にありましたから正 月になると家の中から見える所を着飾った親子が初もうでに行くのだろう、いそいそと楽しそうに歩いて行くのを食事をしながらうらやましい気持ちで見ていたものでし た。
うちではお宮参りに行くというような心のゆとりもなく、お雑煮を食べていたのでした。
「今年こそは喧嘩はすまい。夫と仲良くやって行こう」と決心してお雑煮をいただいていたのでしたが、それも一週間も経ったか経たないうちにまた喧嘩をしてしま うのでした。
原因はいつもお金が出るばかりで残らないということでした。分かっていても子供が五人も六人もいれば倹約したくらいでは間に合わないくらい出て行くのでした。子供は皆元気で育ってくれていたのですが、何よりも稼いでも稼いでもお金が残らないことが夫にとっては不満なのでした。
夫と喧嘩をしてもどの子も皆進学させてやりたいし、何とか行かせる事ができま した。行かせたほうが得だと私もがんこに頑張りました。今になって思うと誰もかれ も一生懸命に生きていたのでした。喧嘩をしたというのは良くはないのですが、喧嘩してまで良くやったと思えるようになりました。
こんな気持ちになれたのは初めてで すが、ありがたいことだったと思えるようになりました。
人間って不思議なものだと思いました。こうして書いて行くうちに私も自分のことを少し距離を置いて考えることができるようになっていることをありがたく思いま した。うちの親子もマンザラではなかったのだと思ったら何だか嬉しくなりました。だんだんエスカレートして来てえらいもんだ、良くやったと初めて思いました。
「自分をほめていればセワないよ」
何処かで誰かに言われているような気持ちになりましたが、それもこんなつたない文章でも書きたいだけ書いたからその結果として与えられたもののような気がします。
夫が何処かで
「いい気なもんだ。やってくれ!!」と言っているような気分になって来ました。
ご苦労さんでしたと初めてこんな思い が浮かびました。
私に書け書けと言ってくれた娘に感謝する気持ちに初めてなれました。