母の随筆2

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鬱病

私は自慢にもならない病を二回患いました。現在はその二回目です。はっきり云ってこんないやな病気っていうのは無いでしょう。死んでしまいたいと何回思ったことでしょう。今でもその心境の中にあります。余程神は私には考える機会を多く与えないとわかりにくい生きものだ、と思し召したのだろうと思います。
前回の発病の時は夫も子ども達も皆健在でした。七人家族の中核になっているつもりで朝から晩まで忙しく動き回っていました。そのときの発病は九州の父の死後、親兄弟のしがらみの中から生じたものでした。病気の引き金になった世間のしがらみは目に見えないがとても強く、引いても押してもどうにもならんという代物です。これがいわゆる「日本的な美徳」とでもいうのでしょうか。私はあまりこの雰囲気には合わないようです。日本的美徳を持ち合わせていない私は一人でしがらみの網に引っかかり、もがいて病気になったのでした。
その後子ども達は結婚してゆき、夫には死なれ一人になりました。今回は正反対の状況のもとに起きたものです。原因は借家の家賃の滞納による、世間によくある問題でした。こんないやな問題は無いだろうと思うような問題でも、一人で解決しまた。よくやったと今でも思っています。何とか事件は決着したのですから、前に比べれば、今回の病気は始めからあまり深刻にならないでやっていけそうだと思っていました。 先程明子は、
「よく書くねえ」
と云って帰り際に手紙を持って出ました。
これは酒も煙草もやらなかった私の無駄遣いと思って下さい。誰かと何か話したくなるから、つい書くことになるのだろうと思います。本を読むとか、別の方法を考えないと、郵政省に奉仕しているようなものだと考えながら書いています。
自分でも困ったものだと思っています。結局誰か話し相手をもとめているようなものだと思っているのですが…
何か書いていると、落ち着くというか、それだけのものです。読むことに力が入ればいいと思っているんですが、頭が疲れて、まだ、どうにもならないのです。
なおるでしょうか。なおってほしいです。

 

【いなりずし】

それは小学校の六年の放課後の一ときだった。
田舎の小学校のことだから、中学や女学校に進学する人はクラスに五、六人位しかいなかった。先生は五、六人の生徒を集めて受験勉強をしてくれた。
ある家庭からは、女中さんがおやつのせんべいや菓子などを届けた。私のうちは手伝ってくれる人はいないし、手も回らなかった。だから私はそのおやつをいただくのが子ども心に心苦しかった。でも子どもでもこのままではまずいと感じて、うちへ帰って母に事情を話したのだった。母は考えがあるという風だったので、私はほっとした。
それから数日経って母の配慮でうちの方からいなりずしが届いた。おいしいいなりずしだった。でもそれを届けてくれたのは、同じクラスの私の従兄弟だった。彼は進学しないのだった。進学しない従兄弟が届けてくれたことに、私はとてもすまなく感じた。皆はおいしいおいしいと食べているのに、私はそのいなりずしが喉を通らないように感じた。そのいなりずしはそのうちで拵えて売っていたのだった。おいしいはずだった。そのおいしいいなりずしが、喉を通らなかった自分を、今でもいじらしいと思う。誰が届けてくれるのかまでは、私は考えていなかったのだ。
うちへ帰ったら、母はいなりずしはおいしかっちょろうと云った。私は何と返事したか覚えていない。それきりおやつを届けてもらいたいとは云わなかった。幼い日のほろにがい思い出だ。

 

【にこごり】

私は小学校の一、二年の頃から自分でべんとうを詰めて学校に行った。朝、ごはんを食べて、さあこれからべんとう詰めだ、今日は何を入れよう。鍋の中には昨晩のおかずの魚が入っていた。
「これはいいものがあった。それに私の好きなにこごりが沢山残っているではなか」
私はうれしくてたまらなかった。早速詰め出した。暖かいごはんの横に魚とにこごりを入るだけ入れた。
「出来た。出来た。今日のべんとうはおいしいぞう」
私はうれしかった。それからハンカチに包んだべんとうを持って、私はよろこび勇んで家を出た。
「行って来まあす」
しばらく行くと、べんとうを包んだハンカチにへんな色がついて来た。
「何だろう」
「これは何だろう」
私は慌てた。にこごりが溶け出して流れ出したのだと分かるには、しばらく時間がかかった。にこごりは溶け出すものだとはつゆ知らず、欲張って沢山入れたのだった。学校への道のりは子供の足では二、三十分はかかっただろう。
汁のしみたあわれなべんとうを持って私は学校に辿り着いた。べんとうの時間に、私は汁のしみ込んだきたないハンカチを開けなければならなかった。開けて見ると、にこごりは影も形もなく、魚が一切れちょこんと汁のしみこんだごはんと一緒に入っているだけだった。
私は何度かその時の光景を思い出したものだった。

 

【子どものためにならん】

クタクタにくたびれて、やっとうちに辿り着いた私には、毎日毎日次から次へとうちの手伝いが待っていた。
おやつが用意されているわけではなく、お腹を満たす暇もなく夕食の仕度をしなければならなかった。母は私の帰るのを待って夕食の準備を始めていたのだろうか。
ある日、金田の祖母がたまりかねて、
「帰るといきなりそんなに用事を言いつけたら可愛そうやないね」
と云ったら母はカンカンに怒った。そのすごさはこわかった。
「子どもの為にならん!!」
と大きな声で吐き捨てるように云った。祖母は
「むげなさうに」
と云ってくれたけど、却って火に油をさすようなものだった。
汽車通学でクタクタになって帰って来た子どもに、手伝いをさせるのは、子どもの為にさせているのかと私は初めて知った。大人の世界はこわいなあと思った。今日は祖母に云われたのでカーッとなったのだろうとは思ったけど、それにしても、どうして母はこうなのだろうと、私はふに落ちなかった。大人の世界ってこわいなあと思ったその日のことは八十になってもわすれられない。

 

林芙美子の放浪記】

私が女学校の頃、母の云ったことをふと思い出した。母は林芙美子の放浪記くらいのものなら書けると自信たっぷりに云ったことがあった。林芙美子は九州で近かったし、普通の人より親しみを感じていたのかもしれないが、相当な自信だなあと私はびっくりしたことを覚えている。
母は間違って子どもを六人も産んでしまったのだろうかとさえ思ったことがあった。でも何たる自信だろう。そう聞かされて母に対する尊敬の気持ちが深くなったかと云えば、そうではない方が多いようだ。何のためにそんなことを年頃にもなろうという娘に話したのか、母の真意が分からない。
私は産まれ変わっても、子どもを五人産んで、アクセク働いて一生を終えただろう。どんなに苦労があったとしても、この苦労があったればこそ今のよろこびをいただけているのではないかと思う。楽しいことだけが単独では決して来ない。
「悲しいところに聖地あり」という言葉が私はとても好きだ。山内先生が亡くなった時、この言葉が枕頭に書いてあった。私はクリスチャンでもないのに、この言葉だけはよく思い出す。
母は私のような娘を長女として産んで、もの足りなくて淋しかったのだろう。母娘で心から話したことは一度もない。勿論けんかをしたこともない。母は気の毒だったと今では思う。何時も奥歯にものの挟まったような気分ではなかっただろうか。こんな親不幸娘を産んだために。

 

【笑ったことのない母】

 ある時夫が云った。
赤池のお母さんは笑ったことがないねえ」
何の時にそんな話題になったのが忘れてしまったが、考えて見ると、母の笑い声を聞いたことが無い。考えられないけど‥‥娘が云うには、
「おじいちゃんは何時もきたないほど笑っていたけどねえ・・・」
全くそうだった。父は何時もヒーヒー云って一番大きな声で笑っていたと思う。娘のいわく
「お母さんもはしたなく笑ってたよ。子どもを五人も産んで、大きな口を開けてきたなく笑ってたよ・・・」
きたなく笑ってたよと云われて、又大きな口を開けて笑った。
考えて見れば私は子どもの時から、うちの中で母の笑い声を一度も聞いたことは無いような気がする。信じられないかもしれないが、人の仕ぐさを笑うことはあっても心から楽しく笑ったことは無かったような気がする。
私など人間が上品に出来ていないので、きたない程大きな口を開けて笑っていただろうと充分に想像はつく。きたない程笑っていたいものだ。

 

【夢】

古便箋が出てきました。使えるのでしょうか。
この頃は、昼寝していると、美しい絵や、すばらしい文章が書いてあるような錯覚を持つことがあるのです。しみのついた何時も使っているうちわなのに、面白いと思います。何処を見ても何も書いていないし、よごれただけのうちわなのに…
人間ってどうなっているのでしょう。面白いと思います。夢から覚めるのが惜しいようす。
一人で楽しめた時間だけは得をしたような気がします。
あんなに現実的ないやなことばかり書いていた私がですよ。神様は考えて下さっているなあとありがたく思います。和子からのお土産の八ツ橋がおいしくて、いただきながら書いています。 
本当は泣きたいことばかり、でもみかけはしっかりしています。もうむつかしい理屈を並べるのは止めました。皆こうして別れていくのですよねえ。あの人は晩年あまりにも、いい楽しみを残してくれすぎました。この前亡くなった時はこんなにつらくは無かったような気がしましたのに。

 

【うつらうつら】

昨夜は蚊が出て目が覚めて二時頃風呂に入ったりして今朝は六時過ぎに起きて調子が狂ってしまいました。それでも歩いて来ました。
この頃は書きたくても書きたいものが湧いてこないので困ります。一種の空白状態なのでしょうか。五十年間一緒にいた人がいなくなったのだから、これで当然なのでしょう。無駄な時間ではないぞという気持ちもするのですけど…
人間ってこんなに難しいものかと初めてぶつかったような気がしています。世の中には私一人ではなくて何万というこの歳の人がいるのでしょうねえ。そう思って慰めてみたりしています。
誰かがいる時はいいのですが、一人になると全く始末が悪いのです。鴨志田で一人暮らしを始めた頃は、自分でもやれるではないかと感じたりしましたが、二度とはなれません。神仏は一度は助けて下さいますが、二度目は自分の力量だとこの頃つくずく感じます。
私のどこをゆさぶってもあの時の感激は出て来ません。神仏は二度はチャンスは与えて下さらないのですねえ。今度は正に自分の力次第だと思います。そういうものが私にまだ残っているとは思えないのです。
この頃はじっと見ていると山内先生の写真と啓子の持って来てくれたあじさいの花が一番すばらしいようです。雑然とおいているサイドボードの上のものが一番自然で美しく見えます。
外では新緑が美しく、小鳥の声が最高の音楽を奏でているのに…
人間って、最高の体験をしているのだと思ったりしているのに…
あの人が最初の旅行をした時に買って来たメイドインフランスの人形をテーブルの前に置いたら涙が出ました。あんなに仲の悪い夫婦だと思っていたのに。一人でうんと泣いたらおさまったようです。

 

【子沢山】

今はすばらしいファイルがあるんですね。啓子が作ってくれました。いものがあるんですね。ありがとうございました。
この頃はもの忘れはするし、どうしたらいいだろうかと思っていましたが、こんなフアイルを見ていると、また何か書いてみたくなりました。私って根から図々しく出来ているんです。
和子に手紙を書いていると、他の世界で遊んでいるような気持ちになれるのです。いい文章も書けませんが、ただただ書いていると、ほかの世界にいるような気分になれるんです。不思議です。
この頃は目もよく見えないし、耳だけは聞こえますので、外で鳴いている小鳥の声がとても楽しませてくれます。耳の聞こえるのはありがたいと思います。

 

【ぼけ】

娘から書け書けと云われて悪い気はしてないのですが、でも一番現実的なものは、そのボケです。ボケ現象なんて云わなくても皆さんよく分かっておられるボケです。
どうしてこんなにボケるのでしょうか。私はウソを書かなければ死ぬまで書けるなんて、えらそうなことも云ったこともありますが、ボケはあまり面白くやれないのです。面白いボケがあったら高座に上がって、高いお金をいただけるんですから、こちとは大分違います。チマチマやろうというものには、どだい無理です。
ウソを書かなければ書けると思った時もありましたが、あの頃はまだましでした。ウソを書かないだけではオマンマはいただけません。
私もこの頃は少し分かって来ました。入り口と出口を間違えて、すまして何とかやっているというのはおあいきょうです。高座でウソを演じるほど度胸は無いし、どうしましょうか。私もオマンマの食い上げになりそうです。
元来バアサンのボケは迫力にかけますから、私が逆立ちしても無理だと思います。着想は面白いと思います。おつむのいい方は考えて下さいよ。当たりますよ。本骨頂はウソの無いボケですねえ。これがむつかしいのだと思います。よろしくお願いします。このへんでおつぎとさせていただきます。
この頃はよくボケるんですよ。それが本モノだから困るんですよ。笑っていられる時はいいんですけど、笑っていられなくなると、これは困りものです。
この頃はモノ忘れがひどいので、娘が赤いマジックペンを買って来てくれました。
「和子は何時来るんだっけ?」「6日よ」「え?」「何時だったっけ」
そういうことしていると、マジックペンになってしまいました。これで印を付けておけば大丈夫だろうというわけです。娘を気の毒に思いました。いやな顔一つせずに合わせてくれているのですから。因果なものです。

 

シャンソン

昨日英彦からCDが届きました。あまりのすばらしさに泣き泣き聞きました。京都でも今ごろは聞いてくれているのだろうと思って聞きました。
今日は休日なので明子は休みです。昨晩啓子は来ていたのですが、今日のことは具体的に聞いていなかったので、丁度親の留守を待っている子のようにポカンとしています。京都は今日は戦場のように忙しいんでしょうと、丁度私一人がハイジンの様にポカンとしているのだろうという感じです。
英彦のもずっと一人で聞いているとあまりのうつくしさに却ってさびしくなります。こんな時に何かいいことを考えようと無い頭を絞っているんですが、何も浮かんで来ません。ムードだけでは駄目ですね。ガチャガチャしたところの方が私には合っているのかもしれないと思ったりしています。人間ひとり生きるということは大変なことだということだけはよく分かりました。
今使っているペンは以前のとは違うでしょう。これは憲司さんが使っていたのだそうです。前のが駄目になったら啓子が持って来てくれました。ではさようなら、お元気で。
CDを聞きながら書いたので手紙がトンデます。

 

【写経】

先程は電話をありがとう。今日は明子が来ています。丁度和子からの電話の後でした。暑いのに、腰が痛いといいながら、わざわざ来てくれるんですから涙がこぼれます。和子の電話で涙をこぼしていた時でした。私は涙でしぼんでしまうんではないかしら。
和子たちにあまり云われると、私は小さくなる人間のような気がします。ペンを持つ手も久しぶりではあるのですが思うように以前のように大きくは動けません。人間がもともと小さいのだなと何時も反省しているのですが、自分ではどうにもならないのです。
般若心経という言葉も直ぐに出てこないような私ですので、全くとんでもないことなのです。それなのにやっているんですから(子どもにすすめられて)バチが当たらないかしらとさえ思っているんです。
やり通せるかどうか、こうして書いていても以前に書いていた時のようによく見えないし、手も動かないのです。人間はこうなっていくのが自然なのだと思うのが一番気持ちが落ちつける方法だと知りました。
和子達の期待に添えればいいですけど、実のところ私はそんなことは考えていません。今のこの時を、少しでも心が安らかに生きて行ければありがたいことと思っています。だからあまり期待しないで下さい。ガッカリした時が悲しいですから…
新江さんから法事のしらせをいただきましたが私は行きませんので御仏前を入れておきますので、一緒に出して下さい。よろしくお伝え下さい。
何日ぶりかにペンを持っても手は以前のように動いてくれません。今日は朝からずっと、休みをとりながらですけど書いていたので、そのせいもあるかもしれません。
娘たちが電話で連絡をとり合ってくれていることは、とてもありがといことと思っています。
明子が今、
「字が小さいねえ」
というので、
「今日は朝からずっと書いたので疲れて大きな字が書けなくなった」
と話したところです。

 

【ある朝】

目覚めたらいつものように明るい朝だった。今日はどうしようか。歩いて帰ってから湯を使いたいと思って歩くことにした。初めて杖を使って歩いてみよう。身支度をして家を出た。階段を降りたところで高須さんに会った。いつもと変わらない朝の風景だった。私は歩き始めた。杖を使うのに少し抵抗はあった。だんだん慣れて来るだろうと思って階段を降りた。歩き出したがちょっと違和感を感じた。快適とはいえない。でも、もう歩き始めている。私は前に前に進んだ。ちょっと変な感じはするがそのうちに慣れて来るのだろうと思った。
いつもの坂になった道を歩み進んだ。その時である。どうしてそうなったのか分からないが、私の足が急いだのか、私は草むらに倒れこんだ。しまったと思ったが後のまつり。
起きようとしたが手がいうことを聞かない。そうしているうちに通りかかった男性が
「救急車を呼びましょうか?」
と言われた。私は自分はそんな状態になっているのかと分かって愕然とした。
「いいです。ここに電話して下さい」
と言ってポケットから手帳を出して、啓子の住所と電話番号を書いているところを示した。そのうちに車が来て私は運ばれた。何処に連れて行かれるのかも何も分からないままに連れて行かれたところは後で分かったのだが、たちばな台病院だったのだ。
こんな時にも自分の性格が出たのだなあと恥ずかしいような気持ちになったのはしばらく時間が経ってからであった。意識はいつもと変わってなかったつもりだったが、私は後で考えて自分を恥ずかしく思った。冷静に娘のところに連絡を取ってくれと頼んだつもりだったが、第三者にはとんでもないことを言うバアさんに見えたことだろうと恥ずかしく思った。
レントゲンを撮ってもらってギブスをされてそれからはどのようにされたか覚えていない。入院にはならなかったが首に輪っかのようなものをはめられてベットに寝かされたと思う。その後はその日はどのようにされたか覚えていない。いつ家へ連れて帰ってもらったかも覚えていない。情けないといったらこの上なしだ。
これからどうなるのだろう。どうしたらいいのか考えても何も分からない。谷に突き落とされたような気持ちになった。啓子を頼りにするほかには私には何の術もないのだ。私はあまりに自由に生きてきたので、大バチが当たったのかなあと思うより考えようがなかった。その後数日のことは何がどうなったか覚えていない。この時から私の人生は変わった。

 

【死ぬ時は死ぬるがよろしい】

たちばな台に来て一週間が経ちました。
はじめはどうなるかと思いましたが、首にわっかをはめられてギブスをはめられて何とか手紙を書いてみました。読みにくいでしょうけれど判読してください。
昨日はお見舞いありがとう。心配かけてすいません。
良寛の「死ぬ時は死ぬるがよろしい。災難に会う時は災難に会うがよろしい」という言葉が身にしみた。昔の人はえらいなあと思った。私はそこまでいけませんが、その意気で残りの人生を生きたいと思っています。
人生にはいろいろなことがあって当然なんだという気持ちになって来ました。私にとっては今までにはない体験でしたが、神仏にちょっと足を止めて考えてみなさい、と言われた感じです。これらは今迄より一日一日を味わって生きて行かなければならないと思います。今度のことは貴重な体験にしていこうと思います。
私は左手のギブスがまだ取れなくて字も思うように書けません。そのうちに手の軽くなるのを楽しみにしています。でも夜はよく眠れますから天国にいるようです。
身体動きも少しは楽になりましたが、どんどんよくなるというわけにはいきません。うちの中を一人で歩いて見たりしています。啓子のいない時に…。
啓子があんまり誰もいない時に歩き回らないでくれというので。こっそり。
それだけ心配してくれているのです。
身体が少し軽くなるとこの頃は人間の運命というようなことをよく考えます。考え出すと際限なく考えてしまいます。
この頃は手も大分痛みが取れて、トイレに一人で行けるようになりました。幼稚園児のようですが、それが実際ですから…
また楽しいこともあろうかと何時も思っています。
今晩は啓子と二人の食事で静かでしたので書く気になりました。
それでは今日はこのへんで。

 

【その後の私】

私は啓子の家で世話になるより生きる術のないことを悟らざるを得なかった。自分は我の強い人間であることは分かっていたつもりだったが、今はその瀬戸際に立たされているような心境だ。
どう考えてもその時の私にとっては鴨志田の階段は不安だった。啓子は車だと十分で行って来れると言うが、私には九州に行くくらいの感じがするのだった。福岡県育ちの私だったからだろうか。そうこうしながらも、何も話しをしないで、毎日朝晩世話になっているのも心苦しい。
「一度鴨志田に帰って来れば気持ちも定まるのではないだろうか」
と言ったら、啓子は
「車で連れて行ってあげよう」とこころよく言ってくれた。
うれしかった。それから数日後帰ることになった。怪我をしてちょうど二か月後くらいだった。
「十分とかからないよ」といくら言われても信じられない私だったが、本当に十分もかからないうちに着いた。何も変わっていない団地の風景だった。おそるおそる三階までの階段を上がった。気をつけて上がったが何てこともなかった。・・・
これが自分があんなに愛した鴨志田の家かと思うと、いとおしくて涙が出そうになるのをグーッとこらえた。自分が可哀そう。家も可哀そう。しばらく呆然としていた。当然のことながら家の中には誰もいない。道具は以前の場所に置かれたままで、少しほこりを被っているくらいだ。何ともいえない気分でしばらく呆然としていた。
啓子はあっちこっち開けていりそうな物を取り出していたが、私は何もする気になれなかった。何もかもが可哀そうで、触れられなかった。誰にも私の気持ちは分からないだろうと思っていた。家を持っていながら落ち着く所のない自分を哀れというか、何ともいえないほどさびしかった。この気持ちは誰にも分からないと思う。でもそれを越えて私は強くなりたい。

 

【リハビリ】

この頃私は降っても照ってもリハビリに通っている。娘の手をしっかりと持って。転んで以来足腰まで弱って、一人で歩くのにも不安を感じるようになったので娘を頼りにして歩いている。全く人間って弱いものだと思う。毎日
「お願いします」と言って歩き始める。ありがたいと思いながら。
今日はいつもの先生と違っていた。
「娘さんですか。いいですねえ」と言われてニコーッとされたのがうれしかった。手も少しずつではあるが動くようになって来た。先生が言われるには、
「足の骨折でなくてよかったですよ。足だったら即入院ですよ。入院したら大変ですよ。それに左手だったから…、右手でなくてよかったですね」
リハビリをしていただきながらこんな会話をしたのは初めてだ。私はうれしかった。ありがたい一日だった。

 

【村上先生】

昨夜は久しぶりに村上先生のところに行った。以前鴨志田にいた時は何時もお世話になっていたホームドクターである。娘の都合で夜になったが、病院の中は以前と少しも変わっていなかった。
「ご無沙汰しておりました」
「お変りありませんか」で始まって、最初に血圧を計っていただいた。平常である。先ずはホットした。
「原さんは血色がいいですね」と先生に言われてうれしかった。この頃はよく人に言われることだが、化粧も何もしていない顔を血色がいいと言われるとうれしい。診察をしていただいたけど、何も異状はなかった。
先生が言われるには
「前の原さんは何時もキンキンしていたけど…」と言われて笑いが出た。何時でも何か緊張感を持っていて、心からのんびりした気分になれなかった私のことを先生は見抜いておられたのだろう。
裁判が始まってからは緊張のしどうしで、何時も血圧は高かった。先生には事情はよく分かっておられなかったことだし、不思議に思われても仕方がない。人間の体はこうも微妙なものかと思った。
帰りの車の中で啓子が言うには、私が席を立った後、先生が言われるには
「娘さんと一緒というのはいいんですねえ」と。啓子は
「しょっちゅう喧嘩ばかりしています」と言うと、先生は
「それがいいんです」と言って笑われたそうだ。その雰囲気が分かるようだ。昨日はいい日だった。

 

【百年祭】

「来年、いつちの爺さんの百年祭をやるから、おじさん元気にしといておくれ」と若い者が私の父に言った。父のいわく、
「このおれにおまえたちはまだ長生きしといておくれと言うのか」とおどけながら言った。自分一人では思うように何一つできないのに、長生きしていておくれと若い者に言われると笑って返す父を私は偉いと思った。こんなユーモアを言える人が他にいるだろうかと思って私は父を尊敬したのだった。
年を取っても、苦しくても、人を笑わせられるゆとりを持っていたらボケるのも少しは救われるのではないだろうか。昔のことを思い出しながら書いてみた。

 

【この頃の私】

毎日陰鬱な日々を送っていた私だったが、やっとこの頃少し目覚めることができた。考えれば考えるほど自分の駄目さが悲しくて泣きたいような日々だった。人間って不思議なもので障害が大きければ大きいほど跳ね返す力も大きくなれるようだ。
今日私は嬉しい体験をした。冷たい雨の中を藤本さん(お手伝いさん)の手をしっかり持って歩いた。言葉の一言一言がやさしくて私はうれしくてありがたかった。そうして話ながら帰るうち、私の頭の中を「私でよかった!!」という思いが駆けめぐった。今まで一度も考えたことも、思いついたこともないものだ。今度の怪我が私でよかったと思った途端、私の頭の中はすっかり入れ替わったようだった。何という幸いなことだったのかと私は思ったのだった。啓子か英彦か、またその他のどの子であっても大変なことになっていたのに。本当に私でよかったと思って胸が熱くなるようなよろこびだった。仏さまに助けられたのだと思ったら涙が出た。
私でよかった。他の誰でも大変なことになっていたのだ。私だったからこれくらいですんでいるのだと思ったら、ありがたいことだったという気持ちに変わってしまった。人間の力ではこんなに180度も気持ちは変えられるものではない。仏さまってほんとうに居られるのだと、子どものようにうれしい気持ちで帰って来た。

 

【目のうろこが落ちたんだね】

小雨の降る寒い天気だったが、リハビリの部屋はいつもと変わりなく盛況だった。しばらく待たされたが、この頃よくやって下さる名前も知らない男の先生が私の前に椅子を持ってきて掛けられた。
「どうですか」とやさしく声を掛けて下さった。今日は当たったと思って私はうれしかった。その先生はやさしいので、いつもとてもありがたい気持ちになれるのだ。
しばらくもんでおられたが、先生が
「原さん、目のうろこが落ちましたね」と言われたので、私はびっくりした。どうして先生に私の心の中が分かっていただけたのかと不思議なものさへ感じた。私は
「自分でよかった。子どもや孫でなくて私でよかったと思っています」というと、先生は
「そうだよ。若い人だったら大変だよ」とニコニコしながらおっしゃった。
人の心の中をこんなにも鮮やかに見抜かれる先生って素晴しい方だと思って、雨の中をうれしい気持ちで帰って来たことだった。
だんだん暮れも迫って来て、正月はどうしようかなど考えて、頭の落ち着かない私にも、こんなうれしいことがありました。

 

【ある病院の風景】

私は毎日(日曜日を除いて)リハビリのために近くの病院に行っている。そこで度々一人の老紳士(?)に出会う。身なりは小ざっぱりしていて、帽子の被り方などさまになっている。リハビリが終わって部屋の外の廊下の椅子で一休みしていると、よく話しかけて来る。
あまり話が長くなると、こちらは席を立ちたくなるのだが、先方は全く意に会せず、いやになってしまうこともある。話の内容は病気のことから、たわいないものまでいろいろだけど、何故か私は亡くなった夫のことを思い出して、中途で席を立ちたいような気持ちになるのだ。
その老紳士は何時も頭には無造作に帽子を被っていて、その帽子がサマになっているのだ。コートもよく似合っている。私は最初に見掛けた時、速、亡くなった夫を思い出したのだった。年格好も夫が生きていればあのくらいだろうと思うと、何となくせつなくなってくる。
男が後に残るより女か残った方がいいと世間ではよくいう。なるほどと思う。

 

【小さな会話】

リハビリでは治療していただきながら先生と面白い話をすることがよくある。
今日は先生が想像しておられたより私の手がよく動いたので、先生もよろこんで下さって
「ほう、原さんうちでもやっているんですか」と聞かれた。私も自己流でやっていたので、
「はい、やりました」と答えた。先生いわく
「原さん、第三の人生ですね。第三の男という映画がありましたよね」
「第一の人生は戦時中の人生、第二の人生としてはいろんなことがあったでしょう」
「これからは第三の人生ですよ」とおっしゃった。
私は清々しい気持ちになれてうれしかった。
ほんとうに「第三の人生」と思えるように生きて行きたい。うちへ帰ったら早速書こうと思って冷たい風の中を明子と一緒に帰って来た。

 

【命には別状はなかったのだから…】

今日は12月17日。普通にしていれば年賀状書き、片付けなどいろいろと忙しくやっている頃なのに、私は今日もヘルパーさんと一緒にリハビリに行って来ました。早かったせいか割に空いていました。家に帰ってからは啓子の用意してくれていた昼食をヘルパーさんに出してもらって一人でいただきました。ほとんど毎日のことなので大分馴れて来たとはいえ、何とも言えない気持ちです。
今日も先生に手をもんでいただきながら一時の人間らしい心情になれるのがありがたいです。
「今まで病気らしい病気もしたことがないので、毎日考えさせられることばかりです」と正直な気持ちを話すと
「そうですか」とちょっと驚いた様子でした。
「怪我は一瞬、養生は一生ですねえ」と言われて
「まあ、命には別状はなかったのだから良かったと思わなければ」と言われました。
全くその通りだと思いました。

 

【包丁を持って】

昨日は三、四ヶ月ぶりに包丁を持って台所に立った。怪我をして手を骨折してから初めて料理らしきものを作って何とも言えないような爽快な気持ちになった。料理は野菜を短冊切りにしてドレッシングで和えた味はイタリア風の料理だった。そんな簡単なものが私にとってはとても新鮮に感じられてうれしかった。
数日前、私は思いきって啓子に言ったことがある。
「こうしてじっとして料理のできるのを待っている気持ちなんて、私はもうやりきれない。何かやればできると思うからやってみたい」と唐突に言った。以前から心では思っていても、口に出せなかったのを思いきって一遍に言った。
実際に骨折してから三か月くらいは何も出来なかった。他人であれば何とか言えることも、親娘であると却って言えないこともある。手が少しずつ動くようになってからは、お茶碗洗いくらいはやっていた。それも落として割りはしないかと恐る恐るだった。
娘が忙しそうに料理を作っているのを出来るまで、ただじっと見ているなんてことを毎日毎日やっていてはたまったものではない。何だかんだと気ばかり使っていても何も前には進まない。やれてもやれなくても、口に出して自分で言わなければ駄目だと思って思いきって言ってみた。娘もパーッと気持ちが分かったような風で、私のすることをいろいろ指図してやれるようにしてくれた。母、娘は言い易いようでいいにくいものだ。
こうして世話になっているのも心苦しいが、だからといって鴨志田に帰っての一人暮らしも承知してもらえそうにないし、どうしたらいいのか分からずに悩んでいた。でも昨日のことは、このどうしたらいいのか分からずにいた悩みに何らかの指図を示してくれたような気がした。

 

【デイサービス】

今年もいよいよ押しつまって来ました。
この頃は書く方はさっぱりで、ついついこういうことになりました。書きたい気持ちは何時も持っているのですが、私は欲張りなのでしょうか。
去る12月26日にはじめてのデイ、サービスというのがありました。知らないじいさん、ばあさんが十人車に乗せられて会場に連れて行ってもらいました。
すごく立派な建物でびっくりしました。食事は手作りの手の込んだものだし、ありがたいと思いました。でもみんな知らないもの同志で、今少しというところでしたがこれも仕方がありません。最後にゲームがありまして、私もちょっと笑われるようなことをしゃべりましたが、皆を笑わせるということは難しいことだけど気分のいいことだなあと思ったことでした。追々馴れていくことだ、と自分に自分で期待をかけている図々しさが私にはあることを知らされた会でした。まずまずの出足でした。
正月には鴨志田に帰って新しい空気を吸って、何か仕入れて帰って来たいと思っているのですが、どうなりますことやら。

 

【感謝】

皆さんお元気ですか。この前はコピーをありがとうございました。私もお陰様でリハビリも見通しがたったような状態です。啓子とぬれたふきんのしぼりあいこをして競っています。まだ啓子には負けますが、よくここまで来れたとありがたい気持ちで一杯です。
昨日は雪の中デイケアサービスに行って来ました。同じようなじいさん、ばあさんが寄るのも、得るものが沢山にあることがだんだん分かってきました。昨日は入浴サービスがありました。半分くらいの人は入らなかったけど、私は何でも体験だと思って入りました。大きな浴槽で、一応パイプで仕切はありますが混浴です。じいさん、ばあさん一緒のお湯につかっていい気分になりました。それから頭からシャワーでジャージャーお湯をかけて、先ず頭から洗ってくれるのです。最後には足の指一本一本、裏から横から洗ってくれたのには恐れいりました。立派な青年が短パンをはいて、はまり込んでやってくれるのですから、言葉にならないほどありがたいと思いました。入浴したのは全員の半分くらいでした。湯から上がったら直ぐに、
「入浴しなかった人は習字をやりました。原さんもよろしかったら書いてみて下さい」
と言われました。書いたものを見せられると、正月とか、初日の出とか、いろいろ書いてありました。私にもどうぞと言われて、書かなければ格好がつかないので書こうと思いました。さて、何と書こうかと考えたが、今風呂から上がって来たばかりの私には感謝という言葉が頭に浮かびました。これしかない。これを書こうと思って直ぐに書きました。若い人が
『練習してからでもいいんですよ』と言われたけど、
『練習しても同じよ』と言って直ぐに書きました。風呂に入れてもらって感謝の気持ちが一杯だったので、ちょうど良かったと思って気持ち良く筆が運びました。楽しい一時でした。
雪もだんだん降ってきたので早めに引き上げて帰って来ましたが楽しい一日でした。だんだんお顔も覚えて来て、気持ちも楽になりました。
啓子は京都に手紙を書け書けと言って、さっきフルートの練習だと言って出かけました。

 

【うちのベット】

私は昨年の8月31日に転んで左手首を骨折して以来、ずっとたちばな台の娘のところで世話になっている。
鴨志田の家は空けたままにしてあるので、いつでも帰ろうと思えば帰れるのだが、それが今までできなかった。
昨日初めて鴨志田に帰って一晩泊まってきた。勿論一人で。まづスーパーで夕食の材料を買ってきた。いい鯛の頭があったのでまづはそれを買った。次に里いも、人参、小松菜などを買って帰った。
うちへ帰って鯛の頭に挑戦したが、思っていた以上に大変だった。それでも何とかうまく煮ることができた。骨折した方の手はまだ完全ではないので随分気を使った。ヤレヤレとほっとした。野菜はあまり骨折らずに美味しく煮えた。
こうして何とかできあがった料理を一人で食べるのも、何とも言えない気分だった。それから風呂に入った。頭の中まですっかり入れ変わったような気分だった。
後は寝るだけだ。十年以上も使っていたベットなのだけど、私は言葉にならないほど、そのベットに入るのがうれしかった。この頃はずっとこんな満たされた気持ちになったことはない。私は極楽浄土に行かせてもらったような気持ちになれた。何とありがたいことだったのだろう。心が安穏でいられるということは。こんなにありがたい気持ちになれることなのだろうか。勿体ないことと思った。
一人考えながら眠りに入って行った。ありがたい夜だった。

 

【再生】

人間年を取ると頭が固くなるということは子どもの頃から聞いていました。人ごとのように聞いていましたが、私は、今、まさにそうなっていることに気が付いて愕然としているというのが、他でもないこの私です。今までの私の人生の中でこれほど強烈に感じたのは今が初めてです。何をボヤボヤしていたのか!!わかり切ったことではないかと、どこからか誰かの怒った声が聞こえて来るような気がします。もうみんな後の祭りです。怒って下さい。うんと怒って下さい。怒られたら私の頭の中から小さな小さな芽が出てくるかもしれないと、ふとそんな気持ちになって今ペンを持っています。
子育てを終えて、これからは今までにやりたくてもやれなかったことをしようと、私は希望に燃えていました。夫はもう亡くなっていたので私は一人暮らしをしてラジオの英語講座を聞くのを何よりも楽しみにしていました。毎朝5時半頃起き出して私にとっては難しい英語講座に、正に四つに組んでやりました。簡単にできるものではないとは十二分に分かっていましたが、難しければ難しい程意欲が湧いたのでした。
英語が終わったら直ぐに歩き出しました。英語で頭を使った後にズックを履くと履いているうちに頭がスカーッとして全く変わったようにいい気分になれるのです。それがとてもうれしかったです。不思議な気分になれたのでした。あの頃はどうなっていたのでしょう。自分でそうしよう、そうなりたいと思うよりも先に自然とそうなってしまっていたようでした。そんなわけで、何もかも、することなすこと総てが楽しくて仕方がなかったのでした。のに、今ではそれだけのフアイトはありません。燃え尽き症候群とでもいうのでしょうか。
書いていてふと自分のことをこのように客観的に感じたのは初めてですが…。こういうことを感じたということだけでも私にとっては初めてのことなのでとてもうれしいことです。書くということの喜びを感じたということがとても新鮮です。こんな軽い気持ちになれたことはこのところ暫くありませんでした。これでいこう。何か書こう。欲張らずに自分を正直に見つめて行こう。何とありがたいことか。私の心の中にこの頃感じたことの無かった何かがうごめいて来ているような気がします。肩肘張らずに自分を正直に見つめて行こう。私は何か救いがあるような気分になってきました。救わずには居れないという何か大きな力を今は感じて、何とありがたいことかと思いながらペンを走らせております。
ここまで書いたら胸が熱くなって涙がこぼれそうになりました。この頃はずっとこういう思いになれたことはありません。誰に話をするではなし、誰もいるでもないのに、こんなに胸の熱くなるような思いになれるとは何とありがたいことでしょう。私は守られていたんだと思うと胸が熱くなりました。
この頃は自分でもこんなに情けなく思ったことのないほど落ち込んでいました。その私に書け書けと言ってくれたのは和子です。自分に自信が持てなくなっていた私にも力を与えて下さったのは娘でしょうか、神でしょうか。私は両方だと思います。私にもまだ力が残っていたのだと、胸が震える程の喜びです。ありがとう和子よ。もう一度生きて行く力をいただいたようです。罪深い私ですからつらくなるとまいってしまいますが、また己に気付くととても楽になれるのです。本当にありがとうございました。心配かけました。どうも皆さんお元気で。ケーキもそうめんもとても美味しいです。ありがとう。さようなら。

 

【心から】 

自分の思っていることを心から話せる人を一人でも持っている人はとてもしあわせな人だと思う。友人はいても友人には深いところは話せないことが多い。
「誰でもそうよ、そんなことは欲張りよ」と言われそうである。私は弱い人間なのだろうか。誰かに分かってもらいたいと、ふと思うことが多いのである。
誰にも悩みはあるだろうけど、私は小学校の頃から現在婆さんになるまで、つらいことは誰にも話さないで自分の心の中にしまい込んで来た。「ナラヌ堪忍、スルガ堪忍」「艱難汝ヲ玉ニス」など格言になっている言葉は大体繰り返し頭の中で考えて、なるほど昔の人はえらいことを言ったものだ。その通りだと自分でもよく納得したものだった。でも、年を取って弱って来ると回りを見ても、誰も彼もそう辛抱ばかりして生きているわけでもないし、何で私だけがとつい思ってしまうことがある。
私は子供の頃から心の中にあることを回りの誰にもほんとうに話したことが無いまま大人になってしまった。
「そんなこと私もよ。誰でもそうよ」という声が聞こえて来そうだ。でも私は誰にも話せないで一人で我慢ばかりして生きて来たのは自分でも可哀相過ぎると思った。子どもの頃から学校であったいろいろなこと、とてもうれしいことでも親に言うことなしに生きて来た。言えなかった。子ども心にも親は聞くことをさほどよろこばないだろうということが分かっていたので…
 家の中で心からうれしくて笑ったことがあっただろうか。幼時期の環境というものは一生その人に影響を与えると思う。年取ってこんなくすぶった婆さんになったのもそういうことも影響しているのではないだろうか。